太田述正コラム#8436(2016.6.3)
<一財務官僚の先の大戦観(その44)>(2016.10.4公開
「昭和初期に唱えられたスローガンに「昭和維新」<(注82)>があったが、同じ維新といっても明治維新期の指導者は幼少のころから剣術などの武道だけでなく論語などの古典にも親しみ、行政官として活躍することを期待された武士、つまり「文官」の面も持つ「武官」だった。・・・
(注82)昭和維新をどう捉えるか、一見むつかしそうだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E7%B6%AD%E6%96%B0
が、要は、工業化社会における、弥生モードから縄文モードへの転換(回帰)を求める運動、と理解すればよかろう。
欧米の戦争指導者にも、「文官」と「武官」の両方の資質を備えている者が多かった。
第二次世界大戦において英国を指導したウィンストン・チャーチルは、井上準之助が金解禁を断行したときの大蔵大臣(ボールドウィン内閣)で、財政の論理も理解していたが、陸軍士官学校を卒業して第一次世界大戦時には海軍大臣と軍需大臣を務めた人物であった。・・・
⇒例として不適切です。
日本の当時の陸軍幼年学校に相当すると言ってよいところの、軍事教練を組み込んだパブリックスクール教育(於ハーロー)、そして、陸士、と、チャーチルは、武官教育しか受けていない人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E7%B6%AD%E6%96%B0
だからです。
(日本の「陸軍幼年学校<では、(旧制)中学と同じ>・・・5年間の修業年限<において、>・・・中学校相当の普通学に加え軍事学を学んだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B9%BC%E5%B9%B4%E5%AD%A6%E6%A0%A1 )
私なら、ハーヴァード大卒で、少佐・中佐として従軍経験を有する、米国のセオドア・ロースベルト大統領
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AA%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
をあげるところです。(太田)
それに対して、昭和維新期の軍の指導者の多くは「武官」の面しか持たない軍人達になっていた。
⇒彼らは全員、チャーチル並の教育を受けたのですから、むしろ問題は、全く軍事と無縁の教育しか受けなかった、非軍事エリート達の側に存した、というべきでしょう。(太田)
もちろん中には、経済や財政の原理を理解する合理的な指導者もいたが、宇垣一成陸軍大将のように軍の主流から排除されるか、永田鉄山軍務局長のように暗殺されていった。
⇒宇垣以外にも朝鮮や台湾の総督等の非軍事職を務めた軍人はいましたし、永田鉄山だけが経済や財政の原理に明るかったとも思えません。
それ以前に、「経済や財政の原理を理解」できない者が非合理的なのであれば、「軍事の原理を理解」できない者もまた非合理的であるはずであり、こんなところにも、松元の軍事、或いは旧軍に対する偏見ないし差別意識が露呈しています。(太田)
かつての日清戦争開戦にあたっては、「軍国ノ大計ハ文武相応シテ謀議周密ヲ要スル事」との伊藤博文の奉議による天皇の詔勅を受け、本来、陸海軍の参謀部だけの会議である大本営に首相や大蔵大臣などの文官も参加して戦争指導体制が整えられた。
日露戦争終戦にあたっては曽禰荒助<(注83)>蔵相が「もうこれ以上金を出せといわれてもできぬ相談なり」としたこともあって戦争終結がもたらされたのであった。
(注83)1849~1910年。萩藩の家老の家に生まれる。戊辰戦争に従軍、明治維新後、仏留し、帰国後、陸軍省や陸士に勤務、その後、非軍事官僚に転じ、駐仏大使も経験、「明治31年(1898年)に第3次伊藤内閣が発足すると司法大臣に就任。以後、農商務大臣、大蔵大臣、外務大臣等を歴任。特に日露戦争時は、外債の不足に苦慮したが、大蔵大臣として大任を果たした。明治40年(1907年)に初代統監府副統監として伊藤博文を補佐し、伊藤の退任後に韓国統監となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E7%A6%B0%E8%8D%92%E5%8A%A9
⇒この頃までは、軍事素養のあるエリートが非軍事分野でも活躍していた、という背景があったわけです。(太田)
ところが、日華事変の際に設置された大本営では(昭和12年11月)、独立した「最高指揮権」が弱化することを懸念した海軍によって、軍人以外のメンバーが排除された(ハーバート・ピックス『昭和天皇』)。・・・
⇒陸軍の姿勢も海軍とさほど異なってはいなかったのではないでしょうか。
軍事の素養のない者に作戦面で容喙されたくない、というのは当然のことでしょう。
海軍に関しては、当時の水準における超ハイテクの装備を運用していたわけであり、なおさらだったと思われます。(太田)
その背後にあったのが、1907年に公布された公式令<(注84)>であった。
(注84) 公式令は・・・詔書・勅書の形式、帝国憲法の改正・皇室典範の改正の公布、皇室令・法律・勅令の公布、予算・契約の公布、国際条約の発表、閣令・省令・宮内省令の形式、国書・親書・条約批准書・全権委任状などの外交文書の形式、親任式で任じる官の官記の形式、爵記・位記・勲記の形式などについて定めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%BC%8F%E4%BB%A4
公式令は、内閣の外に皇室と軍の二つの政治空間を創り出していた(『昭和天皇と戦争の世紀』196~198頁)。・・・
それは、戦いを終結させる機能を欠いた体制の下に戦争を始めてしまったことを意味していた。
⇒加藤陽子が書いたことを松元は鵜呑みにしているようですが、その典拠に直接あたるまでもなく、こんな話は眉唾ものである、と断定してよいでしょう。
以下は、公式令とは何の関係もない挿話群であると考えてよかろう、ということです。(太田)
サイパン島が陥落し本土空襲が始まった昭和19年には、政府の内外で戦争終結を求める動きが出てきた。
しかしながら、それらの動きはことごとく弾圧される。
参謀本部において速やかに戦争終結を図るべきだと主張した松谷誠<(注85)>班長は最前線に飛ばされた。
(注85)1903~98年。中学・陸士・陸大。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E8%B0%B7%E8%AA%A0
⇒この話は、上掲ウィキペディアには出てこないので、松元の勘違いではないかと思われます。
なお、松谷のソ連観は噴飯ものです。(上掲)(太田)
同様の行動をとった陸軍省戦備課主任の塚本清彦<(注86)>少佐も、突然グアムへ飛ばされて戦死した。
(注86)1910~44年。幼年学校・陸士・陸大。「’44.6.14当時陸軍大臣と参謀総長を兼任していた東條首相に対して、戦争の戦局の将来と日本の前途を憂い、自らの職責上の資料を基として戦争経済の見通しを述べ、「首相を辞めて軍事に専任すべきである」と諌言した。 この行為が東條首相の逆鱗に触れ、即日、中央から放逐されサイパン戦線に送り出された。妻に「俺は遠島流刑に処せられて、サイパンに行く」とその無念の胸中を吐露している。 マニラ経由でグアム島に赴任し第31軍守備参謀となる。着任一か月後、グアム島で玉砕、戦死。」
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tsukamoto_ki.html
同様に、逓信省の局長だった松前重義<(コラム#5592)>も陸軍二等兵に応召されて戦地に送られた。
毎日新聞の新名丈夫<(注87)>(しんみょうたけお)記者も「懲罰招集」されたのであった。
(注87)1906~81年。慶應法卒。「太平洋戦争中、1944年(昭和19年)2月23日付東京日日新聞(現・毎日新聞)一面に、「勝利か滅亡か、戦局は茲(ここ)まできた」、「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という記事を書いたため、東條英機首相が激怒し、二等兵として陸軍に懲罰召集を受けることになった(竹槍事件)。
新名は大正年間に徴兵検査をうけたが弱視のため、兵役免除で、まだ当時は大正時代に徴兵検査を受けた世代は1人も召集されてはいなかった。新名が黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であった経過から、海軍が「大正の老兵をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍に抗議し、陸軍は大正時代に徴兵検査を受けた者から250人を丸亀連隊(第11師団歩兵第12連隊)に召集して辻褄を合わせた。
新名自身はかつて陸軍の従軍記者であった経歴と海軍の庇護により連隊内で特別待遇を受け、3ヶ月で召集解除になった。しかし、上述の丸亀連隊の250人は送られた硫黄島で全員が玉砕・戦死することになった。陸軍は新名を再召集しようとしたが海軍が先に国民徴用令により保護下に置き、新名の命を救った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%90%8D%E4%B8%88%E5%A4%AB
⇒仮に松谷の件が事実であった場合といえども、以上の4件中、最初の2件は、中央がとった処置に問題がないのに対し、松前の件はグレーゾーンであり、新名の件だけが明らかにおかしい、というべきでしょう。
最初の3件は、いずれも、官僚の政治的行為事案であって、組織の秩序紊乱にあたるからです。
なお、日本の、エージェンシー関係の重層構造からなる官僚機構の絶妙さは、理由薄弱ないし不当であったところの、松前と新名への処置が、どちらも、中央の意図通りには実行されなかったところにあります。(松前については、コラム#5592参照。)(太田)
昭和10年末、高橋是清は暗殺される前の最後の予算閣議で、強硬に軍事費増を要求する軍部に対して「(陸軍幼年学校のように)社会と隔離して特殊の教育をするということは、片輪を作ることだ。
陸軍ではこの教育を受けたものが嫡流とされ、幹部となるのだから常識を欠くことは当然だ。
其の常識を欠いた幹部が、政治にまでくちばしを入れるとは言語道断、国家の災いというべきである」と述べていたが、先の戦争は、そのような軍のエリートによって国家の災いが実現してしまったものだったのである。・・・
⇒もうお分かりのように、高橋のこの発言は、軍事抜きの「片輪」教育しか受けなかった彼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85
による、軍事込みの全人教育、すなわち、真のエリート教育を受けたところの、日本の軍人達に対する、無知丸出しの罵倒以外の何物でもありませんでした。
目も当てられないのは、私が累次指摘してきたように、(国際軍事情勢判断能力が欠如していたところの、)この高橋の軍事費抑制策が、日支戦争勃発時点において、陸軍の装備の質量ともの不足、及び、質の高い兵士の不足、を必然化し、同戦争の長期化、ひいては太平洋戦争の勃発をもたらしてしまったことです。(太田)
軍のエリートが日本を破滅に導いた反動が、戦後の我が国における旧制高校廃止といったエリート教育一般の否定になったように思われる(加藤廣「ビジネス戦国時代が求めるリーダーとは」『學士會会報』864号)。
⇒旧制高校は、私見では、エリート教育に値する教育を行っていなかったわけですから、早晩、廃止されてしかるべきでした。
現在、日本で(私の言う意味での)全人教育を行っているのは、防衛大学校と陸上自衛隊少年工科学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E4%B8%8A%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E5%B0%91%E5%B9%B4%E5%B7%A5%E7%A7%91%E5%AD%A6%E6%A0%A1
だけですが、どちらも、吉田ドクトリンの下では人気が相対的に高くないので、人材が集まらず、エリート教育を行っている。とはいいにくい状況にあります。(太田)
なお、高田里恵子は、学歴エリートに対する庶民レベルの不信感は明治期からのものだとしている(『文系知識人の受難–それはいつから始まったか」『日本思想という病』所収)。」(142~143、148)
⇒典拠に直接あたらずして言ってはならないのですが、思い付きの域を超えないのではないかと想像されます。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その44)
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