太田述正コラム#8450(2016.6.10)
<一財務官僚の先の大戦観(その49)>(2016.10.11公開)
「原敬<(注98)(コラム#51、3772、4327、4329、4596、4598、4604、4627、4640、4647、4649、4669、4752、5589、5704、6569、7770、7820、8033、8448)>は、平民宰相として高い人気を誇った反面、地方利益を媒介に党勢拡張を図る政治家としても知られていた。
(注98)1856~1921年。盛岡藩の上級武士の家に生まれ、カトリック教徒となる。大学レベルの教育を修了していない。外務省通商局長、次官を歴任。政友会入りし、廷臣大臣、内務大臣等を歴任した後、内閣総理大臣(1918~21年)。
「地方政策では星の積極主義(・・・「我田引鉄」と呼ばれる・・・鉄道敷設などの利益誘導と引換に、支持獲得を目指す集票手法)・・・<すなわち、>利益誘導<手法>・・・を引き継ぎ、政友会の党勢を拡大した。・・・
<彼の>積極政策とされるもののうちのほとんどが政商、財閥向けのものであった。・・・
<但し、>西園寺公望は、原の死の一報を請け「原は人のためにはどうだったか知らぬが、自己のために私欲を考える男ではなかった」と述べている。・・・
外交にお<いては>対英米協調主義<をとりつつ、>・・・軍事費に・・・多額の予算を配分し<た。>・・・
<ちなみに、>大正7年(1918年)に成立した原内閣は、日本初の本格的政党内閣とされる。それは、原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、また閣僚も、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣の3相以外はすべて政友会員が充てられたためであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
それは、民本主義を唱えた吉野作造が、その党弊が余りにひどいので、その打破が必要とするほどのものだったのである。
政治腐敗は、原の暗殺後も収まらず、大正末期には、松島遊郭事件<(注99)>などが起こった。
(注99)「1926年に明るみに出た・・・汚職事件。当時大阪市西区にあった大阪最大の遊廓、松島遊廓の移転計画を巡り、複数の不動産会社から、与野党政治家3名が、移転を巡る運動費(当時の金額でそれぞれ3 – 40万円)を受取ったとされたが、後の裁判では、全員無罪となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E9%81%8A%E9%83%AD%E7%96%91%E7%8D%84
松島遊郭事件では首相の若槻礼次郎(憲政会)が取り調べを受けるまでになったのである。
その状況下で、政友、憲政両党によるスキャンダル合戦が際限も無く繰り広げられた。
⇒日本初の(事実上の)政党内閣の首班となった原敬が、その後の日本の政党政治の理念型となる、利益誘導(腐敗)システムを構築してしまったのは、彼の責任と言うよりは、階層間格差や地域間格差を背景に、異なった理念や価値観を標榜する政党が政権を巡って争う、という欧米、就中アングロサクソン流の政治風土が日本には存在しえないが故であった、と言うべきでしょう。
そんな日本では、政権奪取・維持の手段は、理念や価値観ではなく、もっぱら利益誘導(腐敗)、たらざるをえません。
それどころか、手段であったはずの利益誘導(腐敗)が政治の最大の目的と化してしまう可能性すら内包しているのです。
そんな日本において、アングロサクソン流の二大政党制が機能するはずがありません。
二大政党が、本来の政治そっちのけで、政争・・利益誘導/腐敗の競い合い、足の引っ張り合い・・にあけくれること必定だからです。
これに呆れ、怒った選挙民達(日本国民)が、二大政党制に代わる大政翼賛会的なものを希求したのは当然でしょう。
ちなみに、大政翼賛会的なものとは、事実上の一党制の下で、政争を最小限に抑えつつ、本来の政治を(軍官僚を含む)官僚に委ね、政治家は、儀礼的役割を果たすとともに官僚の上澄みの人事を形の上で行うほかは、もっぱら、利益の地域への分配調整業務に従事する、という政治システムのことです。(太田)
スキャンダル合戦は、政権党を腐敗していると決め付けることによって政策論争抜きに相手にダメージを与えようとするもので、朴烈怪写真事件<(注100)>が良く知られているが結果として政党政治への国民の信頼を失わせ、政党が弱い首相を支える仕組みとして健全に育つ機会を奪ってしまった。
(注100)「1923年に逮捕された朝鮮人無政府主義者朴烈とその愛人(内縁の妻)である日本人の思想家金子文子が皇室暗殺を計画したという大逆事件と、その予審中の風景を「怪写真」として世間に配布させて野党の立憲政友会が政府批判を展開したという、付随する出来事である。朴烈・文子事件とも言う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E7%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
それは、指導層の分裂をもたらすことにもなった。
坂野潤治によれば、指導層が四分五裂して迎えたのが、あの戦争だったのである。
⇒私見では、1941年の開戦前の時点で、「分」「裂」していたとすれば、それは、「開戦」についてのコンセンサス成立下において、その時期とそれが対英「開戦」か対英米「開戦」かの点だけであり、これらすら、明確な形で議論になったわけではない(コラム#省略)のであって、いずれにせよ、当時の日本の、上は(国会議員を始めとする)指導層から下は一般庶民に至るまで、その大部分が、対英米開戦に快哉を叫んだところです。(典拠省略)
松元は、坂野の結論をそのまま横流ししている形ですが、せめて、坂野が、当時の日本の指導層がどのように「四分五裂」していたかと言っているかを記述すべきでした。(太田)
そして、弱い首相の実態は日本があの戦争に突入して戦争を行うために強い指導者が必要になっても変わらなかった。」(176~177)
⇒果たしてそうか?
制度的には、英国のそれと基本的に同じ内閣制の下での首相であって、日英間に大差はなく、実態上も、やや遅きに失したとはいえ、東条英機首相が軍需相、陸相のほか参謀総長兼任、嶋田繁太郎が軍令部総長兼任となった1944年2月の時点では、東条への権力集中度は、国防相だけ兼任していたチャーチル
https://en.wikipedia.org/wiki/Churchill_war_ministry
への権力集中度に匹敵した、と言えるのではないでしょうか。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その49)
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