太田述正コラム#8545(2016.8.13)
<一財務官僚の先の大戦観(その67)>(2016.11.27公開)
 「1913(大正2)年<に創設された、米国の>・・・中央銀行制度<である連邦準備制度」は、>・・・連邦政府の権限を出来るだけ小さなものにする仕組みとなっている。
 具体的には、まず連邦準備制度理事会(FRB)が連邦政府の機関としてではなく、・・・連邦議会の機関として設けられている。
 次に、発券銀行が・・・7つの地区連邦準備銀行=地区連銀とされ、その7つの発券銀行をFRBが外側からコントロールする仕組みとされている。・・・
 ちなみに、FRBが議会の機関として設けられているのは、米国憲法が通貨価値の決定権を持つのは議会としているからでもある。・・・
 <すなわち、同憲法>第1条第8節<に>連邦議会は以下の権限を有する。<とあり、その>第5項<に>貨幣を鋳造し、その価値および外国貨幣の価格を規律<す>・・・ること<とある。>・・・
 その結果、例えば、・・・公定歩合の<最終的>決定権は、米国においては議会<に>ある。・・・
 また、・・・<FRB>の職員の給与も議会職員すなわち一般の公務員並み<の低いもの>となっており、我が国や欧州諸国の中央銀行のように市中銀行並びとはなっていない。
 米国の中央銀行制度が諸外国と異なっている点としては、米国では・・・中央銀行券と並んで政府紙幣の流通が認められていることがある。・・・
 <但し、米国で、>今日、流通のほとんどを占めているのは、中央銀行券たる連邦準備券(Federal Reserve Note)である。
 <注意すべきは、連邦準備券が、>発行した地区連銀の債務であると同時に連邦政府の債務という二重の性格をもつものとされてい<ることから、>・・・財務長官のサインがなされていることである。
 それは連邦準備券が、潜在的な政府紙幣であることを意味している。・・・
 いつでもやめられる連邦準備制度の下に発行される銀行券の最終責任は国で、その場合、連邦準備券は政府紙幣になると<の趣旨>である。・・・
⇒松元、脱線の上に脱線を重ねていますが、私や読者の多くの一般教養目的で、米国と英国の「中央銀行」に関する記述の部分的転載をしておきます。
 現代の話の部分については、さすがに、いちいち、典拠にあたって、松元の記述の妥当性を検証することまではやっていません。
 実は、英国は「18世紀に入っても長いこと、ヨーロッパでもっとも貧しい国であった」(オルテガ『大衆の反逆』)ことから、世界の金融の中心になるなどとは誰も思っていなかった。
⇒確か、オルテガのこの本は、東大教養学部(駒場)の時の、指定共通推薦図書のうちの1冊であり、私も、当時、読みました・・松元も同じだった可能性が大です・・が、或いは、その種の記述があったかもしれません。
 しかし、いくら何でも、この本の元になった雑誌連載を執筆していた時に、松元が、なおそのままの認識を持ち続けていたらしいのは、呆れるのを通り越して到底信じられない思いです。
 というのも、「もっとも貧しい国であった」は「もっとも豊かな国であった」が正しいのであって、完璧なまでの誤りだからです。(コラム#54(2002.8.6)参照。)
 そのような英国が世界の金融の中心になった切っ掛けは1848年のパリ2月革命であった。
 革命がヨーロッパ各地に波及すると、ヨーロッパ中の資金が、革命の波及はありえないと考えられたロンドンに逃避したのである。
 それ以降、シティーは世界の金融センターとなり、英蘭銀行があたかも世界の中央銀行のような役割を果たすようになった(<長幸男(?(太田))>『昭和恐慌』)。・・・
⇒シティー・オブ・ロンドンとイングランド銀行の、それぞれの英語ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/City_of_London
https://en.wikipedia.org/wiki/Bank_of_England
のどちらにもその種の気配を感じさせる記述すら皆無であり、典拠の誤りである可能性もあります。(太田)
 英蘭銀行が世界の金融の中心になった背景には、英国がその歴史において戦争で増加した借金を戦後には臨時増税(ピールの所得税<(注144)>等)によって必ず償還していたことからくる信用があった。・・・
 (注144)「イギリス税制史に初めて所得税が登場したのは、ナポレオン戦争下の1799年であった。しかし、戦争が終わりに近づくにつれて、廃止要求の声が高まり、ついに1815年に廃止された。その後、25年間の空白の時代を経て、1842年に復活遂げたのである。この時のピール(Sir Robert Peel)[(第二次内閣:1841~46年)]による所得税は、関税、エクサイズ、地租を中心とした従来の税制から、所得税を中枢とした税制への転換期であり、さらに、19世紀後半の「ヴィクトリア朝の繁栄」の経済的基盤となっていったことを考えると、まさにイギリスにおける所得税の成立として位置付けることができるであろう。」
https://www.researchgate.net/publication/32196920_igirisu19shijizhongyenizhiruhuobiliutongnozhidebianhua_pirusuodeshuichenglinoqiantitoshite
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%AB ([]内)
 英国は、<米>独立戦争やフランスとの戦争が続いた結果、財政が苦しくなり、1850年頃には税収の半分が利払費に充てられるという危機的な状況になっても債券を必ず償還した。
 英国の利払費比率は19世紀末のグラッドストン蔵相の改革等によって20パーセントを切っていくのである。・・・
 ところが第一次世界大戦の後には、英国も巨額に上った戦時国債の償還を自らの増税で賄うことは不可能と考えられるようになる。
 第一次世界大戦の戦費は、英国の国家予算の38年分にも上っていたのである。
 そのような状況下で、新たに世界の金融の中心になったのは、戦争で世界に対する巨額の債権国となり、また戦禍を被らずに生産力を急伸させていた米国(ニューヨーク)であった。
 しかしながら、そのようにして米国に移った国際金融の中心としての地位は、第二次世界大戦後の昭和38(1963)年には、米国のケネディ大統領がドル防衛策として利子平衡税<(注145)>を導入したことを契機として再びシティーに戻ることになる。
 (注145)interest equalization tax。「ドル防衛の一環として、1963年ケネディ米大統領が国際収支特別教書で提案し、翌64年ジョンソン政権になって成立した税。金利平衡税ともいう。当時<米国>の金利水準は諸外国のそれに比べて低かったため、<米国>の投資家は高利回りの外国証券に投資する傾向が強く、長期外債の購入によって巨額のドルが流出し、国際収支悪化の一原因となっていた。そこで<米国>で起債する有価証券および1年を超える商業銀行の対外貸付に・・・年率1%の利子率に相当する・・・課税することによって、長期資本の流出を抑制しようとしたのである。この措置はその後更新を繰り返しながら存続したが、1974年対外投融資規制の撤廃に伴い廃止された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%88%A9%E5%AD%90%E5%B9%B3%E8%A1%A1%E7%A8%8E-877413
 英蘭銀行は、そのようにして、再び国際金融の中心的な立役者となって今日に到っているのである。」(271~274、276~279、284、286)
⇒このくだりには典拠さえ付いていませんが、やはり、シティー・オブ・ロンドンとイングランド銀行のそれぞれの英語ウィキペディア(前掲)のどちらにもその種の気配を感じさせる記述すら皆無であり、松元の勘違いである可能性も排除できません。
 ちなみに、2016年3月現在の世界金融センター指数では、ロンドンが1位であり、ニューヨークが僅差の2位となっていることは確かです・・米国には、それ以外にも、ワシントン、サンフランシスコ、ストン等の有力世界金融センターが存在することは立ち入らないとしても・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%9E%8D%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC
が、「ニューヨーク市場<の隆盛>は米ドルが国際通貨として使われているためであり、ロンドン市場<の隆盛>は、英ポンドがかつての国際通貨としての地位を失ったが、ユーロダラー取引がロンドンを中心に発達したことによるものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%9E%8D%E5%B8%82%E5%A0%B4
ということからしても、利子平衡税を契機にロンドンが国際金融センターの首座に返り咲いた、との記述には疑問符が付きます。(太田)
(続く)