太田述正コラム#8557(2016.8.19)
<欧米史の転換点としての17世紀?(その3)>(2016.12.3公開)
(3)主張
「この、非常に面白い本の中で彼が主張していることは、本質的には単純なことだ。
17世紀においては、科学、すなわち観察と実験に立脚した知識、が、啓示、伝統、及びドグマに立脚した信条であるところの、宗教を追放し始めた。
宇宙はもはや地球を中心とするものではないことが発見された。
⇒前述したように、人間/地球を中心とする宇宙、という世界観は、アブラハム系諸宗教等特有のものであるところ、経験科学の普及によってかかる世界観が追放されたのは、欧州においてのみであり、最初から経験科学が「普及」しており、しかも、キリスト教が自然宗教的に理解されていたイギリスに関しても、このことは当てはまりません。(太田)
この流儀(way)は、人間が全能の神の特別な被造物であることの、似たような置き換え(displacement)にも適用されることになった。
もっとも、これは、ダーウィン(Darwin)とその進化論まで待たねばならなかったが・・。
⇒「進化論の日本における受容は,1877(明治10)年の東京大学でのエドワード・モースの講義をもって嚆矢とする。以来,それはこの国の社会に広く浸透したが,大方は進化に関する学説を受動的に受け止めるだけであった。」
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/hans/129/Hiroi.pdf
というわけで、アブラハム系諸宗教とは基本的に無縁であった社会の一つである日本においては、一つの有力学説として、何の抵抗感もなく受け入れられたのであり、進化論そのものは、何の思想的インパクトも日本には与えませんでした。(太田)
この、近代精神(modern mind)の誕生という変化の証拠として、ドイツを荒廃させた、ひどい三十年戦争(1618~48年)が、<地理的意味での欧州における>最後の宗教戦争になったことが挙げられる。
⇒仏南部の内陸部において、ユグノー(プロテスタント)と仏政府との間で起こったところの、1702~1704年の激しいゲリラ戦、それ以降1710年までの断続的な戦いからなる、カミザール(Camisard)の反乱
https://en.wikipedia.org/wiki/Camisard
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89
のことをグレイリングは忘れているようです。(太田)
グレイリングは、この本の約4分の1に相当する80頁をこの戦争の概要記述に充てている。
彼は、政治史家でも軍事史家でもないが、この戦争に関し、少なくともその後半<(注1)>は、宗教よりも権力政治についてのものであったことを認めることさえしており、正しく捉えている。」(H)
(注1)1630年からのスウェーデンの介入(~1635年)以降、これに加えての1635年からの仏の介入、
https://en.wikipedia.org/wiki/Thirty_Years%27_War
以降のことを指していると思われる。
・・・イギリスの17世紀は、イギリス内戦、チャールズ1世の処刑、オリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell)の護国卿としての権力の座への上昇、チャールズ2世の王政復古、ジェームズ2世の短い治世、そして、オレンジ公ウィリアムとその妻である(ジェームズ2世の娘の)メアリーを王座に就けた名誉革命、を含んでいたところの、空前の憲法的危機と体制変革の時だった。
そして、1707年になって、ようやく、グレートブリテン連合王国を創設するために、イギリスとスコットランドは、それぞれの議会を統合した。
それはまた、イギリスが、蘭=ポルトガル戦争(Dutch-Portuguese War)(1602~61年)<(注2)>、英西戦争(1625~30年)<(注3)>、ポルトガル再興戦争(Portuguese Restoration War)(1640~68)<(注4)>、アイルランド同盟諸戦争(Irish Confederate Wars)(1641~53年)<(注5)>、第一次、第二次、第三次英蘭諸戦争(Anglo-Dutch Wars)(1652~74年)<(注6)>、仏蘭戦争(Franco-Dutch War)(1672~8年)<(注7)>、そして、九年戦争(Nine Years’ War)(1688~97年)<(注8)>、に参戦した世紀でもあった。
(注2)「海外のポルトガルの支配領域であるアジア、西アフリカ、ブラジルでポルトガルと<蘭>の抗争」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
(注3)三十年戦争の一部。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E8%A5%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
(注4)「1640年12月に40人の貴族と知識人がリスボンの王宮を襲撃し、・・・スペイン<(西)>から派遣された・・・副王・・・を逮捕<、>国王に推戴されたブラガンサ公ドン・ジョアンはジョアン4世として即位し、ブラガンサ王朝を創始した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 前掲
(注5)「アイルランド革命」(1641年)<と>「クロムウェルのアイルランド侵略」(1649年~1653年)の総称<であり、>・・・『11年戦争』(Eleven Years War・・・)とも呼ばれている。・・・
<後者は、イギリス内戦中における、>クロムウェルによって率いられた<英>議会軍によるアイルランド再占領のこと」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BE%B5%E7%95%A5
(注6)「<両国の東インド会社間の軋轢を背景に行われたこの>戦争は海戦が中心で双方とも相手方の本土に侵攻することはなく、いずれも中途半端な結果に終わった。<英>は3次にわたって<蘭>と開戦し、<蘭>経済に大打撃を与えたが、皮肉にも1688年の名誉革命により、かつて敵対した<蘭>統領ウィレム3世を<英国>王ウィリアム3世として迎えることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E8%98%AD%E6%88%A6%E4%BA%89
(注7)オランダ侵略戦争。「<仏と蘭>・神聖ローマ帝国・<西>との戦争である。初めは<仏英>と<蘭>の戦いだったが、途中から<英>が中立、神聖ローマ帝国諸侯と<西>が<蘭>と同盟を結び参戦、<仏>もスウェーデンを戦争に引き入れ規模が拡大していった。」
なお、この戦争における英蘭の戦いの部分は、要するに、第三次英蘭戦争のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E4%BE%B5%E7%95%A5%E6%88%A6%E4%BA%89
(注8)「大同盟戦争(War of the Grand Allianceance・・・)。「膨張政策をとる<仏>王ルイ14世に対してアウクスブルク同盟に結集した欧州諸国が戦った戦争である。アウクスブルク同盟戦争(War of the League of Augsburg・・・)とも・・・プファルツ戦争またはプファルツ継承戦争(Pfalzischer Erbfolgekrieg)とも言う。
主戦場となったのは<独>のライン地方や<西>領ネーデルラント(現在のベルギー・ルクセンブルク一帯)で、アイルランドや<伊>、<西>北部、北<米>にも拡大した。アイルランドではしばしばウィリアマイト戦争と呼ばれ、北<米>ではウィリアム王戦争と呼ばれる。」
なお、仏側に立って戦った唯一の勢力は、英王位復帰を狙う亡命ジェームズ党(ジャコバイト)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8C%E7%9B%9F%E6%88%A6%E4%BA%89
⇒話は逆であり、17世紀だけでも、地理的意味での欧州を中心に、その多くが世界的規模で、ほぼ継続的に戦われた諸戦争のおかげで、「近代的」な公私の諸制度や科学技術の急速な進展がもたらされた、と言うべきでしょう。
その結果が、地理的意味での欧州諸列強による、世界支配の一層の拡大と深化であったわけです。(太田)
最後に、それは、近代世界の先駆者達であるところの、ロバート・ボイル(Robert Boyle)、ウィリアム・ハーヴェイ(William Harvey)、ロバート・フック(Robert Hooke)、そしてアイザック・ニュートン(Isaac Newton)のような有名人達による諸発見、の世紀であり、ポーランド難民の「諜報者(intelligencier)」たるサミュエル・ハートリブ(Samuel Hartlib)<(注9)>のような類によって維持された国際文通ネットワーク群の時代(epoch)であり、王政復古後に自然世界についての知識の改善のために設立された王立協会(Royal Society)<(注10)>のような諸協会の時でもあった。
(注9)1600?~62年。「イギリスの教育改革家,農業思想家。父はポーランドの亡命商人,母はイギリス人。ケンブリッジ大学に学んだのち,1928年<イギリス>に定住。 J.コメニウスを崇拝し,『学校の改革』A Reformation of Schools (1642) などのコメニウスの著作を翻訳紹介した。」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%96-115531
彼は、知識の増進を目指し、知識人から一般人まで、幅広い人々と文通を続けた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Samuel_Hartlib
(注10)「1662年認可; 正式名 the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge; 略 R.S」
http://ejje.weblio.jp/content/Royal+Society
(続く)
欧米史の転換点としての17世紀?(その3)
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