太田述正コラム#8603(2016.9.11)
<ウィルソン流民族自決の愚かさ(その4)>(2016.12.26公開)
(6)結論
「これは正しい(just)平和ではなかった。
それは、屈辱と混ぜ合わされた強奪(extortion)だった。
著者は、更に、協商諸国が発したところの、「民主主義」と「自決(self-determination)」は、空虚でおざなりな標語(cant)以上のものではなかったことを示唆する。
オスマントルコ、ハプスブルク、及び、ロシア各帝国の残骸から出現した侵略的な新国家群は少数諸民族に巨大な諸問題を生み出した。
著者は、これらの諸帝国は、硬直的に専制的であるとして悪漢視されていたけれども、実際には、それぞれの悪しき歴史的評判よりももっと親切(benign)<な存在>であったように見える。」(B)
「第一次世界大戦時の米大統領のウッドロー・ウィルソン(Woodrow Wilson)と通常結び付けられているところの、民族自決(national self-determination)の原則は、実際の戦後の世界においてよりも理論の上において<のみ>魅力的<な代物>だった。
この原則の欧州の取り壊された(dismantled)諸帝国への適用は、常に首尾一貫性に欠きがちであった上に、民族的紛争の危険性をはらんでいた。
著者は、それを「良く言って世間知らず(naive)、実地においては、第一次世界大戦の暴力を、多数の境界諸紛争や諸内戦へと変換(transform)した」、と評する。」(A)
⇒生まれ落ちた故郷、ないし民族/部族、を捨て、或いは、黒人のように捨てさせられて、北米という新天地にやってきた人々の国であるために民族問題(を含む国際情勢)について音痴に等しい米国、しかも、黒人等の有色人種差別を当然視し、当時においても、黒人の過半に実質選挙権を与えていなかったという反民主主義国である米国の大統領が、あろうことか、第一次世界大戦講和の考え方として民族自決と民主主義を提唱したことは、おこがましいどころではなく、犯罪的ですらあったというべきでしょう。
この犯罪に積極的に付け入り、加担したのが英仏であり、自分達の植民地を(、民主主義はもとよりですが、)民族自決の適用外としつつ、欧州とアジアにまたがっていたオスマントルコを、ご都合主義の民族自決もどきを適用する形で解体し、新しく設けられた国際連盟の委任統治の名を借りて、中東、北アフリカにおいて自分達の植民地を増やしたのですからね。(その細部は省略。)
これに加えて、米英仏が主導した、ドイツを始めとする旧中央同盟諸国からの過酷な賠償金取り立て決定がなされたわけです・
(ウィルソンは、当初は無賠償を提唱したものの、英仏の強硬な姿勢と英仏が戦時中の米国からの借金を賠償取立てなくしては償還できないという事情もあり、米国も取り立てに同意するに至ったという経緯があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%AE%E8%B3%A0%E5%84%9F )
ロシア帝国の部分的解体やロシア革命/ロシア内戦やそれに伴う対外戦争、及び、人命の損失は対象外にした方が無難ですが、第一次世界大戦以降の中欧や西欧における革命/内戦/戦争、及び第二次世界大戦の欧州・北アフリカ戦部分、並びに、それらと関連した人命の損失、については、ことごとく(そもそも参戦すべきではなかった第一次世界大戦に参戦し、その上、戦後に犯罪的な講和条件を中心となって旧中央同盟諸国押しつけた)米国に一義的な責任がある、と言うべきでしょう。
(第二次世界大戦の欧州・北アフリカ戦部分以外についての一義的な責任が米国にあることについては、既に指摘していたところです。)
これに加えて、オスマントルコの解体によって、中東・北アフリカ地域は、今日にまで至るまで、構造的な不安定要因を抱え込むことになったのであり、現在のイラク/シリア内戦を含む、第一次世界大戦以後の、同地域における革命/内戦/戦争/テロの大部分もまた、米国に一義的な責任がある、と言えそうです。
この考え方に従って、米国が20世紀(以降)にもたらした人命の損失を大幅に増やす形での再計算を、いずれどなたかの協力を得て、試みたいと考えています。(太田)
3 終わりに代えて–イラン革命
下掲のコラム抜粋に目を通してください。↓
「・・・40年近くにわたって、シャー(the shah[=モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Shah Pahlavi)])は、遅れた、貧困に打ちひしがれた国を、中東一教育程度の高い労働力を持った強力な国へと変革した。・・・
<革命時の駐イラン米大使であった>サリヴァン(Sallivan)は、皇室一家の友人達や顧問達の面前で、シャーの執権と革命の可能性についてジョークさえ言っていた。
彼が米国政府に送った諸公信の中で、サリヴァンは、シャーの離国した場合の帰結に関する、シャーの反対者達を含む、穏健な宗教指導者達の諸懸念を気にしない姿勢を続けた。
彼らの諸恐怖は、「余り論理的ではなく考え抜かれたものでもない」と主張したのだ。・・・
サリヴァン大使が、実のところ、自分がシャーを見放した(backed the wrong horse)のは誤りだったかもしれない、との決定的情報を得たのは・・・何と、シャーが後数日でイランを離れようとしている時に既になってからだった。・・・」
https://www.washingtonpost.com/opinions/a-new-look-at-the-shah-his-fall-and-how-it-continues-to-shake-the-world/2016/08/26/f3c4251c-49ed-11e6-bdb9-701687974517_story.html?utm_term=.0397be7b68f3
(8月27日アクセス)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC ([]内)
「<シャー>は、1951年より石油国有化を進めるとともに<ソ連>に接近したモハンマド・モサッデク首相と対立したが、1953年にCIA<(米国)>とMI6<(英国)>の支援を受けた皇帝派・・・によるクーデター(アジャックス作戦)が起きてモサッデク首相は失脚し、権力を回復した」(上掲)ことで、クーデターを首謀した米国(と英国)は、イラン国民の多くの強い反発を買い(コラム#省略)、爾後のシャーの世俗化政策もこれあり、1979年の反米・シーア派原理主義のイラン革命が起きてしまう(上掲)のですが、その際に、このコラム抜粋からも分かるように、米国はシャーを守ろうとせず、見殺しにしたわけです。
その結果がどうなったのかは、皆さん、ご承知の通りです。
となると、(国際情勢音痴のくせに腕力だけは強いことに起因する犯罪国家たる)米国は、イラン革命後に生起したイラン・イラク戦争についても、一義的な責任があることになりそうです。
こうなると、パキスタンやアフガニスタンに関しても、両国がらみの革命、内戦、戦争等の相当大きな部分についても、米国の責任を追及したくなってきます・・そのほか、米国の裏庭である、中南米の全体としての不安定化、犯罪率の高さ、それに伴う死者、と無縁ではないと思われる、米国の同地域「支配」や介入の責任もあります・・が、とりあえずは、立ち入らないことにしましょう。
(完)
ウィルソン流民族自決の愚かさ(その4)
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