太田述正コラム#8615(2016.9.17)
<改めてフランス革命について(その1)>(2017.1.1公開)
1 始めに
ピーター・マクフィー(Peter McPhee)の、『自由か死か–フランス革命(Liberty or Death: The French Revolution)」のさわりを書評群をもとにご紹介し、私のコメントを付します。
A:http://www.ft.com/intl/cms/s/0/ea81b282-0580-11e6-9b51-0fb5e65703ce.html#axzz46cQQ6GqU
(4月23日アクセス。書評(以下同じ))
B:http://www.publishersweekly.com/978-0-300-18993-3
(9月6日アクセス(以下同じ))
C:http://www.dallasnews.com/lifestyles/books/20160714-liberty-or-death-the-french-revolution-by-peter-mcphee-all-the-pieces-of-the-story-are-here-but-maybe-not-the-ones-you-expect.ece
D:http://www.heraldscotland.com/news/14565401.__39_Tackling_the_thorny_questions_left_by_French_Revolution__39___Review___Liberty_or_Death_by_Peter_McPhee/?ref=arc
E:http://www.history.ac.uk/reviews/review/1975
なお、マクフィー(1948年~)は、豪州生まれで豪州メルボルン大卒、同大博士で、豪州内の2大学で教鞭を執った後にメルボルン大に戻り、歴史学を教え、最終的にはそれまで英米の学者が就いてきた同大副学長に豪州人として初めて就任し、一旦退職した2009年以降は、フェローとして同大との関わりを続けている、という人物です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_McPhee_(academic)
2 改めてフランス革命について
(1)序
「(『ロベスピエール–ある革命家の生涯(Robespierre: A Revolutionary Life)』の著者<として知られる>)マカフィー・メルボルン大名誉教授は、見事に、かつ、素晴らしい明晰さでもって、<この本で、>近代史における最も複雑な諸出来事の一つを説明する。・・・
この本は、この巨大な事柄に関してかくも長く頂点を目指して競い合ってきたところの、諸歴史学派のどれにもあてはまらない。
その偉大なる達成は、フランスで新しい世界を創造しようとした人々が、どのように全欧米史を革命化したかを示そうとしたことだ。
マクフィーの、この尋常ならざる著作は、今後長年にわたって、フランス革命の標準的な説明となるべく運命づけられている。」(B)
(2)地方から見たフランス革命
「フランス革命は、近代史における、おそらくは、最も劇的かつ重大な出来事だろう。
⇒明治維新こそ、それが人間主義を旨として、アジアの欧米に対する再興の開始を劃した・・それが、1949年の中共の建国、その中共の1978年の改革開放につながった・・という点で、言葉の本来の意味における世界史が成立して以来の、最も劇的かつ重大な出来事だと言うべきでしょう。(太田)
そして、それは、近代の始まりを劃す出来事であるとされている。
⇒何度も申し上げているように、イギリスは最初から「近代」だったのですから、「近代」という時代区分は意味を持ちえません。(太田)
その諸教訓は、世代の変化につれて変わるかもしれないが、物語の筋は揺るがないように見える。
すなわち、破産した体制、良い意図を持ってはいたが非効果的な国王、高い諸理想の暴力への転化、そして、全ては軍事独裁へと帰結、という筋だ、
マクフィーは、この語り口を完全には捨て去らないが、この物語を異なった角度から見る。
彼は、この革命を、異なった人々によって、異なった諸形で、異なった諸場所で、経験されたものとして見るのだ。
1780年代のフランスは、「人々のアイデンティティの最も深い感覚が自分達の特定の州に結び付けられていた社会だった」、と彼は記す。…
「この国の大部分において、フランス語が日常言語であったのは、行政、商業、及び、諸専門職、に関わっていた者達においてのみだった。…
ラングドック(Languedoc)の700万人の人々は、オック語(Occitan)の諸変種を話した。
北西部ではフラマン語(Flemish)が話された。
ロレーヌ(Lorraine)ではドイツ語が・・。
スペインとの国境地帯には、バスク人達(Basques)とカタロニア人達(Catalans)がいたし、ブルターニュ地方(Brittany)には、おそらく100万人のケルト人達がいた」、と。
⇒どこでも英語が、地域を問わず、ほぼ日常言語になっていたイギリスに比して、いかにフランスが「遅れていた」か、を示しています。(太田)
フランスの97%はカトリック教徒であり、著者は、革命の失敗はそれがカトリックの神父達と衝突したことに帰せられるとする。
⇒(自分ないしは自国を超える、というか、自分ないしは自国の外の)「普遍的」権威にも拘束されるところの、カトリック教徒である以上は、フランスは、イギリスのような個人主義社会にはなり切れないわけです。(太田)
大部分の歴史学者達とは違って、彼は、パリでの諸出来事にはより低い比重とそれに見合った関心しか与えない。
「パリが革命の震源地であったことは確かだが、2000万人超中約650,000人、すなわち、フランス人40人中ほぼ1人、しか1780年代にはパリに住んでいなかった」、と彼は記す。」(C)
⇒この点も、中央集権化されていたイギリスに比してのフランスの「遅れ」です。(太田)
(続く)
改めてフランス革命について(その1)
- 公開日: