太田述正コラム#8701(2016.10.30)
<プーチンのロシア(その9)>(2017.2.13公開)
(8)いかがわしさ
「著者は、学術としてのユーラシア主義は眉唾物(be barely credible)である、と記す。
その訴える力(appeal)は、「その正確性ないし説明力ないし厳密性(rigour)にではなく…、それが、諸悪魔祓いをし、精神的諸傷を治し、ロシアの粗野で支離滅裂な歴史の諸断裂を壁紙で覆う、というやり方に根差している」、と。
<でも、>米国の政治学者のフランシス・フクヤマが冷戦が終わった時に提示した「歴史の終わり」の領域をはるかに超えたところにまで、間違いなく、我々は動いてきた、と。」(C)
「著者が、ユーラシア主義を疑似科学的ナンセンスである、と見なしていることははっきりしており、この見解について、私も同感だ。」(G)
「著者にとっては、グミリョフは、どちらかと言えば、学者よりも、彼の両親・・・のような詩人なのだ。
著者が書くように、グミリョフによる諸歴史描写(histories)は、しばしば、事実に基づいておらず(fanciful)、厳密に言えば、余り学問的ではないのだ。
彼は、<存在しない、>人々をでっちあげ(invented)、諸文献をでっちあげ、或いは、彼の挿話(narrative)に適合するように、魔法のように、時を超えて諸物を動かした。…
彼の反対者達は、彼が典拠を完全に無視している、と非難したものだ。
彼の博士論文の「民族の起源と人間の生物圏(Ethnogenesis and the Human Biosphere)」は、政治的圧力があったからではなく・・それどころか、共産党の上級党員達は、彼の機関にそれをパスさせようと試みた・・、「主張している理論がSFの諸領域に属する」、お粗末な学術だったからだ。
著者は、民族誌学者のセルゲイ・チェシュコ(Sergei Cheshko)の言、「グミリョフの考えは、基本的に詩だ。…それは、全くもって証明などできないナンセンスなのだが、小説のように読むには値する。・・・
ドゥーギンに関しては、著者は、彼を、一種のポストモダンのファシストである、と描写する。
<それは、>「シュールリアリズム芸術と同じ素材(stuff)から生まれた、彼の政治的諸プロジェクトである」、と。
例えば、ドゥーギンが設立した青年運動は、「観衆へのポストモダン的ウィンクと共に着手された」のであって、それはまた、「殆どそれ自身の自己パロディ」だった、と。
著者は、「今日に至るまで、私は首を傾げている。彼は果たしてそれを本当に信じているのだろうか、と」、と言上する。
この答えいかんに関わらず、彼はドゥーギンが危険であると考えている。
ユーラシア主義は、「その恣意性、そのやわさ(flimsiness)、そのインチキさ」によって定義されるが、それは、「ロシア政府内、及び、軍と保安諸機関の中の重要な人々の間、における、ドゥーギンの支援者達(sponsors)のせいで、「公的に認められた(sanctioned)国家的観念となっている」、と著者は記す。
ロシアの2008年のグルジア(ジョージア)との戦争、そして、現在のウクライナでの戦争、は、ロシアが、「ロシア帝国の、名前以外の全てを再構築(remake)する」ところの、いわゆる計画を追求するにあたっての、活動中のユーラシア主義であることを、著者は示唆している。」(G)
(続く)
プーチンのロシア(その9)
- 公開日: