太田述正コラム#8783(2016.12.10)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その6)>(2017.3.26公開)
「パリ在住のドイツ国人民の中で、家屋を所持しているもの、そして、久しく在住している者で、引き続きパリ市に在住を願う者はこれを許可する。
考えるに、このたびの戦争では<、フランス政府は、>その始まりから万事をかなり公にして、敵国の人民が市内に在留することを禁じなかった。
軍中の報告書もすぐにこれを公布した。
真にその処置は公明であるが、戦闘上では大いなる損失につながるだろう。
その理由はこうだ。
すなわち、パリ市中に日々出している朝夕の壁書および軍事報告や新聞等を市街に出せば、たちまち羽が生えて敵地に飛んで行くに等しく、敵軍はじっとしたままで市内の事情を知り、機会をつかんで莫大な利にありつくと思うからである。・・・
⇒私自身が感じたフランス当局に対する懸念を正元も感じていたようですね。(太田)
フランス帝すら総軍の指揮を掌握できない。すべて、バゼーヌ<(注14)>、マクマオンの二将でもって全軍を指揮するのだ。」(50~51)
(注14)フランソワ・アシル・バゼーヌ(Francois Achille Bazaine。1811~88年)。「二等兵から元帥へと異例の昇進を果たした<人物。>・・・
クリミア戦争・・・第2次イタリア独立戦争<で活躍。>・・・メキシコ出兵では1863年に遠征軍の総司令官<として>・・・首都メキシコ市に入城を果たし、<そ>の功により、・・・元帥府に列せられた。翌1864年にフランスの傀儡政権第2次メキシコ帝国が成立し、オーストリア皇弟フェルディナント・ヨーゼフ・マクシミリアン大公が即位したが、<米国>の援助を受けた<メキシコ前政府>の根強い抵抗は続き、バゼーヌは・・・1866年にナポレオン3世と皇帝マクシミリアンに帰国を提案した。だが、帝位に固執するマクシミリアンは提案を拒否、ナポレオン3世の再三の説得にも応じなかったため、やむなく翌1867年3月、バゼーヌはメキシコからの撤退を開始した。・・・
普仏戦争<では>、バゼーヌは第3軍団司令官に任命されるが・・・連戦連敗。さらに<メッス>の要塞に攻囲されたが、防衛のために全力を尽くすこともなく、54日間の篭城の後10月23日に17万3千の兵とともに降伏し・・・<戦後、>共和国政府から<敵との内通の嫌疑もかけられ、>戦犯として処断され・・・<たが、元上官で大統領になっていたマクマオンが助け船を出した形で、最終的にスペインに亡命して現地で没した>。・・・
<ちなみに、>彼が開戦直後友人に宛てた手紙の中に、”Nous marchons a un desastre”「我々は敗北に向って進んでいる!」という一節がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%8C
⇒恐らく、バゼーヌは、最初からフランス側の敗北は必至と見ていて、兵の損害を極力抑えるべく消極的な戦いに終始した、ということでしょう。
自分が上官であった時代から長年バゼーヌとつき合いのあったマクマオンは、バゼーヌの心中を見通していて、だからこそ、戦後、バゼーヌに救いの手を差し伸べたのだと思われます。(太田)
「9月2日・・・私は今日、フランス人に訊いてみた。
私が今の戦況を見聞するかぎり、プロイセン軍は続々と侵入し、すでに大軍がパリ周囲の諸地方を蹂躙している。
勢いを駆ってすぐにでもこの町を攻撃するだろう。
にもかかわらず、なぜフランス帝はこの城内に入って防御の指揮を執らないのか。
たしかに、ナポレオンは皇帝である。
本来、城中に構えて指揮を執るべきなのだ。
しかし、パリ市民は帝を憎み罵ること甚だしい。
ゆえに、ことさら質問をしてみたのだ。
フランス人は答えて言う。
ナポレオンがパリに帰ったならば、直ちに民衆によって殺されるだろう。
その理由は、今度の戦争はそもそも帝の胸中から出た計画であるのに、軍は敗れ、人が多く死んだ。
そのうえ、首都に敵軍が迫ってフランスが危急の期に至るというのはすべて帝のなせるところであり、民衆はこれを深く恨んでいるのだ。
ゆえに、今、帝が再び帰城すれば、殺害されるのはほとんど確実である。
私はさらに訊いた。
戦争に勝敗はつきものであって帝の罪とばかりはいえない。
今日の危急事態に際しこのことを論じている余裕などないのではないか。
特にナポレオンはフランスの帝である。
当然、国民すべてが彼を尊び崇め、民衆は皆、心を合わせ協力し防戦すべきである。
今日の切迫に臨んで、なぜ自国の帝を拒み憎む理由があるだろうか。
その人が答えて言うには、今、フランス全国民の怨恨はすでに帝に帰していて救いようがない。
今日、パリ市民の庶民のありさまはもはやこの段階に来ている。
後日の事情の参考に供するため、以下のことを記しておく。
私がベルリンの新聞を見ると、8月18日から27日までの10日間におけるプロイセン軍の死傷者数は左のとおりである。・・・
陣中病没死<を含め、>・・・総計11万9581・・・」(67~68)
⇒この本の編集者が、正元の記述は「プロイセン軍の損失数が多すぎる。普仏戦争での緒戦は<・・「普仏戦争は緒戦から」ではないのか?(太田)・・>圧倒的にフランス軍のほうが劣勢であった<のに・・>。」(60)と指摘しているような記述が長々と続いた後、唐突にこのくだりの記述がなされるので、いささか、とまどってしまいますが、なかなか興味深いくだりである、と思います。
ところで、正元、英国紙のみならず、ドイツ紙も戦争中に読んでいたようにも受け止められるところ、ドイツ紙を中立国を経由して輸入することは理論的には不可能ではなかったとしても、正元の原著は日記をそのまま本にしたのではないわけであり、恐らく、このドイツ紙引用部分は、戦後に挿入したものなのでしょうね。
いずれにせよ、英国紙に関しては戦争中にも輸入可能であったでしょうから、普仏戦争当時において、普仏両当局とも、自国にとって不都合な事実を自国民に伝えないようにしようと思っても不可能に近かったのではないか、と推察されます。(太田)
(続く)
渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その6)
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