太田述正コラム#8911(2017.2.12)
<米帝国主義の生誕(続)(その11)>(2017.5.29公開)
 「・・・著者が極めてうまくやったことは、我々に、枢軸的な諸決定・・条約の採決、最高裁裁判事例、その他・・がすんでのところで逆にぶれても不思議ではなかったということへの注意喚起だ。
 一人の裁判官または3人の上院議員達が寝返っていたら、或いは、ブライアンがもう少し「当惑させる」人物でなかったならば、米国は、極めて異なった国になっていたかもしれないのだ。・・・」(A)
⇒既に口を酸っぱくして指摘してきたように、ごく例外的な者を除き、当時の帝国主義論議における両陣営は、どちらも人種主義者達で占められていたのであって、米国が「極めて異なった国になった」可能性など皆無だったと言うべきでしょう。(太田)
 「・・・米国の諸行状(endeavours)の人種主義的性格(nature)が、「米国の自由の旗の下での…良い安定した政府の諸祝福(マッキンリー)」を可能にする「慈悲深い同化(benevolent assimilation)」の観念から、「心得違いのフィリピン人達(マッキンリー)」、その殊勝ぶった言辞の形でのより強烈な言葉である、「野蛮な諸部族(ローズベルト)」、や、フィリピンでの米軍司令官による、「人種的発展における子供の段階」に至る、議論の全てに流れている。・・・
⇒ 最後の発言の主を突き止められなかったのですが、米西戦争(1898年~)のフィリピンでの司令官はメリット(Wesley Merritt)、それを引き継ぎ、米比戦争(1899年~)の初代司令官になったのはオーチス(Elwell Stephen Otis)、二代目の司令官になったのは(あのマッカーサーの父親の)アーサー・マッカーサー(Arthur MacArthur, Jr.)です
https://en.wikipedia.org/wiki/Elwell_Stephen_Otis
https://en.wikipedia.org/wiki/Philippine%E2%80%93American_War
が、マッカーサーは米西戦争の時点からフィリピンで戦っており、この3人の中ではフィリピン滞在が長かった・・とは言っても、彼も1901年7月にはフィリピンを去っている・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Governor-General_of_the_Philippines#The_American_Military_Government_.281898.E2.80.931901.29
https://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_MacArthur_Jr.
ことと、彼の息子のダグラス・マッカーサーが日本人を12歳だと言ってのけたこととの類似性から、彼が去ってから、なお10年以上米比戦争は続いたけれど、フィリピン人を「子供」と言ってのけたのは彼である可能性が大です。
 なお、彼は、初代の総督としてフィリピンに赴任してきたハワード・タフトと折り合いが悪く、フィリピンから転出させられており、後のタフトが米大統領時代に彼が米陸軍の最先任(中将)であったにもかかわらず、空席となった陸軍参謀長には補任されなかった(上掲)、ことも、息子のダグラスのトルーマン大統領との折り合いの悪さによる馘首を彷彿とさせます。
 この親子、公然たる人種主義者であったことといい、夜郎自大性といい、一卵性父子、といった趣がありますね。(太田)
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[ダグラス・マッカーサーの米議会証言録(1951.5.5)]
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 「・・・日本人は全ての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限に見下げる傾向を持っている。<米国>人が自信、落ち着き、理性的な自制の態度をもって現れた時、日本人に強い印象を与えた。・・・
 それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民(日本人)が、<米国>人なら赤ん坊の時から知っている『自由』を初めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である。・・・
 アングロサクソンが科学、芸術、神学、文化において45才の年齢に達しているとすれば、ドイツ人は同じくらい成熟していました。しかし日本人は歴史は古いにもかかわらず、教えを受けるべき状況にありました。現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が45歳の年齢に達しているのと比較して日本人は12歳の少年のようなものです。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC#.E3.83.9E.E3.83.83.E3.82.AB.E3.83.BC.E3.82.B5.E3.83.BC.E3.81.AE.E3.82.A2.E3.83.A1.E3.83.AA.E3.82.AB.E8.AD.B0.E4.BC.9A.E8.A8.BC.E8.A8.80.E9.8C.B2
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 <その後も、以下のような主張がなされた。>
 フィリピン人達は、もう一つの帝国からの「解放」だけではなく、「原住民たる独裁者<アギナルド>の傲慢な統治」からの「解放」に対して、「米共和国を、今後長きにわたって寿ぐことになるだろう」、と。
 その一方で、戦闘が血腥くかつ凄まじいものになってくると、蜂起していた戦闘員達は、「彼らは我々の主権を猛攻(assail)した(再びマッキンリー)」と攻撃され、米国内の反帝国主義者達は、米国の兵士達の殺害の共犯(ローズベルト)」にされた。
 若者達よ、<米国>旗の周りに結集せよ、と。・・・」(C)
(続く)