太田述正コラム#8969(2017.3.13)
<再び英国のインド亜大陸統治について(その2)>(2017.6.27公開)
 (2)全般
 「東インド会社が設立された1600年には、英国(Briain)は世界のGDPのわずか1.8%を生産していたのに対し、インド亜大陸(India)は約23%・・1700年には27%・・だった。
⇒(イギリスとスコットランドが合併する前なので、)1600年にはまだ英国(Britain)は存在していないはずだが、と茶々を入れるのは止めるとして、ウィルソンのシリーズの時にも記したところですが、「インド」と「インド亜大陸」、の書き分けをタルールもまた、単にインド(India)と記して怠っているのは、彼が、「パキスタン人」でも「バングラデシュ人」でもなく「インド」人であることからして、かつ、長く国連に勤務したことからしてなおさら、無神経過ぎると思います。
 私がかねてから訴えているところの、地域名と国名との区別の必要性、意義、を、ここで改めて強調しておきましょう。
 なお、この本そのものには出てくるのでしょうが、過去の諸GDPの典拠は何で、それぞれどうやって推計したものであるのか、を知りたいところです。(太田)
 英インド亜大陸統治の2世紀が経った後の1940年には、英<本>国は、世界のGDPの10%近くを占めていたが、インド亜大陸は、極貧で飢えているところの、貧困と飢饉の全球的申し子たる、貧しい「第三世界」の国へと堕していた。
 英国は、この社会に、16%の識字率、27歳の平均寿命、事実上国内工業皆無、90%超が我々の今日貧困水準と呼ぶであろうものを下回る生活、を残していった。
 英国人が入ってきた<時点の>インド亜大陸は、富んで繁栄した商業社会だった。
 そもそも、だからこそ、東インド会社はそこに関心を抱いたのだ。
 遅れていたわけでも未開発だったわけでもないどころか、植民地になる前のインド亜大陸は、英国の流行を追う社会によって大いに求められたところの、高品質の諸大量生産品を輸出していた。
 英国の選良は、インドの亜麻<(注1)>布(リンネル=linen)と諸絹を纏い、インド更紗(chintz)<(注2)>と装飾的諸織物で彼らの諸家を飾り、インドの諸香料と諸調味料を熱望した。
 (注1)「フランス語ではラン<(lin)であり、>、ランジェリーはアマの高級繊維を使用した女性の下着に由来する。また繊維の強靭性から劣質の繊維はテントや帆布として利用され、大航海時代の帆布はアマの織布である。・・・日本では、江戸時代・・・は亜麻仁を中国から比較的安易に輸入出来たので栽培は定着しなかった。本格的な栽培は北海道開拓の初期に榎本武揚によって導入され、第二次世界大戦中をピークに繊維用として北海道で広く栽培されたが、化学繊維の台頭で1960年代半ばに栽培されなくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E_(%E6%A4%8D%E7%89%A9)
 (注2)「インド起源の木綿地の文様染め製品、及び、その影響を受けてアジア、ヨーロッパなどで製作された類似の文様染め製品を指す染織工芸用語。・・・更紗の日本への渡来が文献から確認できるのは17世紀以降であり、南蛮船、紅毛船などと称されたスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスなどの貿易船によって日本へもたらされたものである。中でも、東インド会社を設立し、インドとの貿易が盛んであったオランダやイギリスの貿易船によって日本へもたらされたものが多かったと推定される。・・・
 <ちなみに、>日本の衣料の素材としては絹と麻が主流であり、・・・日本に木綿<栽培>が<定着する形で>伝わるのは室町時代末期である。・・・江戸時代中期以降、日本各地で木綿の生産が盛んになり、広く普及するようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B4%E7%B4%97
 <また、>17世紀と18世紀には、英国の店主達は、より高い諸価格を請求するために、安物のイギリス製の諸織物をインド製と偽ろうとした。」(A)
 (3)英国人のインド観
 「早くも、1859年に、時の英国のボンベイ総督のエルフィンストーン(Elphinstone)卿<(注3)>は、英国政府に対し、「分割して統治せよ(Divide et impera)、は、古代ローマの箴言であるところ、それは我々の箴言でもあるべきだ」、と助言した。」(A)
 (注3)John Elphinstone, 13th Lord Elphinstone and 1st Baron Elphinstone。1807~60年。スコットランド貴族たる兵士、政治家、植民地行政官。マドラスとボンベイの総督を歴任。後者の時にインド叛乱に遭遇。生涯独身。学歴なし。
 なお、スコットランド貴族(lord)だったが、イギリス貴族(男爵=Baron)でもあったところ、子供なしで亡くなったために、男爵位は廃絶となった。
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Elphinstone,_13th_Lord_Elphinstone
 「1870年代にインド相であったソールズベリー(Salisbury)侯爵<(注4)<(コラム#305、3533、3566、3581、4018、4458、4870、5034、5040、5302、5304、5960)>は、「インド亜大陸は出血させなければならない」、と語ったところ、19世紀末には、その地は英国の最大の収入源になった。
 (注4)Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury。1830~1903年。3回、計13年にわたって英首相。イートン、オックスフォード大を病気のため貴族の特権で名誉卒業。インド相であったのは、1866~67年と1874~78年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Gascoyne-Cecil,_3rd_Marquess_of_Salisbury
 「止まることは危険であり、後退することは滅亡だ」、は、18世紀央に英領インドの最高司令官であったロバート・クライヴ(Robert Clive)が、早くも、はっきり発言したことだ。
 インド亜大陸の海運業は破壊され、インド亜大陸の貨幣は操作され、諸関税と諸規則は、英国の工業に有利になるよう捻じ曲げられた。」(B)
 「ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)の悪しき人種主義についての記憶喚起もなされている。
 それは、「私は、インド亜大陸人達を憎む。彼らは獣のような宗教を持つ獣のような連中だ。…この巨大な象の背中に副王に座ってもらい、ガンディー(Gandhi)を泥の中へ踏みつぶしてもらえ」、だ。」(C)
 「タルールは、英帝国主義なかりせば、<インド亜大陸で>近代化は起こらなかった、との主張は、「とりわけ不快だ」、と見る。
⇒近代化とはアングロサクソン文明の(全部または一部の)継受である、という私の見立てからすれば、「英帝国主義」以前に、「イギリス」なかりせば、近代化は起こらなかったわけであり、タルールが何故不快に思うのか、不思議です。(太田)
 英帝国が、未来の全球化した世界での最終的な成功の諸基盤を敷いたとの主張に対する返答として、彼は、正しくも、「人間達は長期的には生きてはいない。彼らは、ここで、そして今、生き、苦しんでいるのだ」、とのたまう。」(B)
⇒英本国及び英植民地当局が、インド亜大陸のアングロサクソン文明の継受を遅らせた、と言い換えれば、ここは、タルールの言う通りです。(太田)
(続く)