太田述正コラム#8983(2017.3.20)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その6)>(2017.7.4公開)
「世界の歴史を見ると、・・・セックスの指南書<である>・・・性典は西暦が始める前後に誕生した点で共通している。・・・ローマの・・・『アルス・アマトリア』<(注12)>・・・インド<の>・・・『カーマ・スートラ』<(注13)>(コラム#2701、5767)>・・・<但し、支那の性典群は、それら>よりも2~3世紀古いのではないかと推測されている・・・
(注12)Ars amatoria。「ローマの詩人オウィディウス[(Ovid)]によって西暦元年ころ作られた<ところの、>・・・詩形による・・・作品で〈恋愛術〉を意味する。・・・最初の2巻は男性を対象として書かれ,その反響にこたえて第3巻が女性に向けて書かれた。恋人をいかにして手に入れるか,またいったんかなえられた恋を長く保つにはいかにすべきかを豊富な実例によって説いたもの」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B9%EF%BD%A5%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2-1144376
セックスの体位の話は第3巻の終わり頃に出てくる。
この書は、古代ローマでは問題にならなかったと考えられているところ、1497年にはサヴォナローラ(Savonarola)によって、アルス・アマトリアを含む、オウィディウスの全著作が焚書され、1930年には、英訳本が米税関によって没収された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ars_Amatoria ([]内も)
(注13)Kama Sutra。「ヴァーツヤーヤナ[(Vātsyāyana)]<という人物によって>・・・推定でおよそ[紀元前400年から起源200年]にかけて成立した作品といわれて<いる。>・・・カーマ(性愛)は、ダルマ(聖法)、アルタ(実利)とともに古来インドにおける人生の三大目的とされてきたが、<著者>はカーマの研究の重要性を説き、本書の最後には、情欲を目的としたものではないことをことわっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9
なお、体位について書かれている部分は、この書全体の20%に過ぎない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Kama_Sutra ([]内も)
これに対して日本初のセックス指南書が誕生したのは平安時代の984(永観2)年で・・・丹波康頼<(注14)>により翻訳書『医心方』全30巻が完成した。これは隋や唐時代の<支那>から伝来した医書を治療の際に利用するために整理したもので、そのうち性的な知識やテクニックを集めたのが巻28の「房内篇」である。
(注14)たんばのやすより。912~995年。「出自には2つの説がある。1つは、渡来系の流れを汲む坂上氏の一族とするもので、遠祖は後漢の霊帝と称する。各種系図ではこの説を採るものが多い。『姓氏家系大辞典』でも出自を坂上氏の一族である丹波<氏>の子孫とする。もう1つの説では尾張氏の一族で丹波国造家の丹波直の子孫とする。・・・
<『医心房』献上の>功績をもって朝廷より丹波宿禰姓を賜り、以来医家として続く丹波氏の祖となる。・・・子孫は代々典薬頭を世襲し侍医に任じられる者を輩出、その嫡流は室町時代に堂上家となり錦小路家を称した。・・・[幕末の<綾小路>頼徳は尊皇攘夷派として活躍するが、八月十八日の政変で失脚し、三条実美らとともに長州に下り(七卿落ち)客死。]・・・俳優の丹波哲郎・・・が末裔にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%BA%B7%E9%A0%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%B6 ([]内)
この「房内篇」が日本における性典の第1号というわけで、世界のすう勢からすれば800年から1000年の遅れだった。丹波康頼は後漢の霊帝の子孫といわれるが、当時は丹波国・・・の鍼博士という地方の医療の地位に留め置かれていた。・・・康頼は『医心方』を朝廷に献上することによって自分の出自にふさわしい栄達を望んだのである。「房内篇」には・・・<支那>では失われた資料<も用いられており、>・・・明治時代になって<このことを知った清朝政府は人を派遣して、これを書写したことが記録に残っている。・・・
<中身だが、>仙人になるためには美人を求めず、年が若くて、乳房がいまだ膨らまず、肉付きのよい女を第一とすること、そういう女性を常時、7、8人ずつくらいそばに置いておくのがよいとしている。
また、女を御するためにはいくつかの大事がある。先ず「女を瓦石(がせき)のように思い、自分のことは金や珠玉のように信じ込む」こと。さらに「女と接する際には朽ち果てた縄で荒馬を手なずけるような気持ちで対応すること、そうやって情を惜しめば命も尽きることがないといい、房中術の根本として「30歳になれば、一夜に10人の女と接して洩らさない術を体得することと」と説いている。この一節は、江戸時代の儒学者である貝原益軒の『養生書』に引用され・・・た。・・・
「房内篇」の最大の特徴は<支那の諸資料>から合わせて39種の体位をピックアップし、体位の絵と解説を加えていることである。」(100~103、106)
⇒セックスは、芸術的・知的営みの原動力であるだけでなく、各地域の最高の知性達の芸術的ないし知的な営みの対象でもあった、というわけです。
実際、ここで紹介された3書は、それぞれその一部がセックスの指南書と受け止められてきたところ、そのような受け止め方は誤りに近い、と言うべきでしょう。
なお、『医心房』「房内篇」の成立が遅れたのは、日本には書き言葉そのもが支那から伝わったことからして、当たり前ですが、この3冊の中では一番オリジナリティに乏しい・・支那諸資料の内容の抜き刷り的紹介に過ぎない・・わけです。
そのため、日本は、この3書が成立したそれぞれの時点の諸社会の中では、最も男女平等的であったはずなのに、「房内篇」が、支那直輸入の男尊女卑観で貫かれてしまっています。(太田)
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その6)
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