太田述正コラム#9019(2017.4.7)
<ナチが模範と仰いだ米国(その3)>(2017.7.22公開)
歴史学者達は、ナチの人種法と米国との関係(connection)を過小評価してきた。
なぜなら、米国は、ユダヤ人達ではなく黒人達に完全な市民諸権を拒否することに主として関心があったからだ。
しかし、著者の見事な学術的探偵的な作業は、1930年代央のナチの法学者達と政治家達が、アフリカ系米国人達が投票したり白人達と結婚する権利を奪ってきたやり方に何度も何度も注目したことを証明した。
彼らは、米国が、何百万人もの人々を二級市民達へと貶めたやり方に魅惑されたのだ。
我々には奇妙に思えるかもしれないが、ナチ達は、米国は、巨大な広さの生活圏(レーベンスラウム=Lebensraum)を征服していたところの、北欧系(Nordic)の人種帝国(racial empire)であるところの、白人種の篝火(beacon)であると見ていた。
ドイツ人学者のヴァールホルト・ドラッシャー(Wahrhold Drascher)<(注1)>は、著書の『白人種の至上性』(1936年)の中で、米国の建国を、アーリア人種の興隆における「運命的な転換点」と見た。
(注1)1892~1968年。ドイツの主として植民主義に係る歴史学者・社会学者。
http://www.namibiana.de/namibia-information/who-is-who/autoren/infos-zur-person/wahrhold-drascher.html
米国なしでは、「白人種の意識的統合(conscious unity)は決して出現しなかったことだろう」、とドラッシャーは記した。
歴史学者のデトレフ・ユンカー(Detlef Junker)<(注2)>によれば、ラッセ(Rasse)とラウム(Raum)、すなわち、人種と生存権、は、ナチ達にとって、米国の、世界における勝利の背後にあったところの、鍵となる二つの言葉だったのだ。
(注2)1939年~。ドイツの歴史学者にして、諸大学で教鞭を執った後、現在、ハイデルベルク米国研究センター所長(創設者)。
https://de.wikipedia.org/wiki/Detlef_Junker
ヒットラーは、米国における人種的純粋さへの傾倒(commitment)に敬意を払い、「何百万人もの赤肌色者達(Redskins)を数10万人まで撃ち殺すことでもって減らしたところの、対インディアン諸作戦を称賛した。・・・
ヒットラーが、米国に人種主義における諸革新を見たのは間違いではなかった。
「20世紀初の米国は」、南アフリカさえも凌駕する、「人種法における全球的指導国だった」<からだ>、と著者は記す。
スペインの<アメリカ帝国、すなわち、>新世界帝国、は、市民資格を血<(人種)>と結び付ける諸法を創始(pioneer)したが、米国は、スペイン人達のそれよりもはるかに進んだ人種主義法制を開発したのだ。
1世紀近くにわたってアフリカ系米国人の奴隷制は、ジェファーソン(Jefferson)による米独立宣言と、そ<こに明記されていたところ>の「全ての人々(men)は平等に創られた」、との主張への記念碑的な汚点だった。
<米国の>1790年の帰化法(Naturalization Act of 1790)<(注3)>は、「自由な白人であれば、いかなる者も」米国人になることができる、と規定したが、ナチ達は、これに頷き、これは市民資格への尋常ならざる人種的制限の事例である、と受け止めた。
(注3)「好い性格の(good character)」という要件も付いていた。よって、インディアン達はもとよりだが、白人年季奉公人(indentured servant)達やイスラム教徒達も、米国市民資格が与えられなかった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Naturalization_Act_of_1790
カリフォルニア州は、1870年代に、支那人の移民を禁止した。
そして、全米が、1882年にこれに追随した。
第一次世界大戦は、<米国に、>移民と移民者達に係る人種主義的諸教義に焦点を当てるはずみをつけた。
1917年のアジア人禁止圏法(Asiatic Barred Zone Act)<(注4)>は、「無政府主義者達」と「白痴達(idiots)」と共に、アジア人移民者達を禁止した。
(注4)1917年移民法(Immigration Act of 1917)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Immigration_Act_of_1917
そして、1921年の割り当て法(Quota Law)<(注5)>は、イタリア人達、ユダヤ人達・・彼らは<米国に>移民してくるのを概ね禁止された・・、よりも、<地理的意味での>北欧の移民者達を優先した。
(注5)Emergency Quota Act。1921年緊急移民法(Emergency Immigration Act of 1921)とも呼ばれる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Emergency_Quota_Act
ヒットラーは、『我が闘争』の中で、米国の移民諸制限を称賛した。
ドイツの未来の独裁者は、<ドイツの植民地ないしドイツの保護国であった>ある国で生まれたら<ドイツ>市民資格が与えられるため、「かつてドイツの諸保護領で生活していて現在はドイツに住んでいる黒んぼ(Negro)が、かくして、「ドイツ市民資格」を獲得する」、という事実を嘆いた。
ヒットラーは、「要するに、特定の諸人種の移民を排除する」ところの、「アメリカ連邦(American Union)」なる…、より良い着想の少なくとも弱い諸始まりを見出すことができる一つの国が現在存在している」、と付け加えた。
米国は、その人種に立脚した諸法のおかげで、ドイツに比べて、より真に民族的な(volkisch)観念を有している、とヒットラーは結論付けたのだ。」(F)
(続く)
ナチが模範と仰いだ米国(その3)
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