太田述正コラム#9253(2017.8.2)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その20)>(2017.11.16公開)
 「<孝徳天皇が亡くなると、>ヤマト政権はおろか東アジア初の重祚、しかも女帝の再登場<、という形で、斉明天皇が即位した。>・・・
 斉明6(660)年、ヤマト朝廷は、唐の軍政下におかれた百済再建のために戦う遺民から救援の要請をうける。・・・
 百済遺民軍を率いる謀将・鬼室福信(きしつふくしん)<(注46)>が<唐・新羅>連合軍を撃退させ・・・唐の俘虜百余人を献上してきた<(注47)>・・・。・・・
 (注46)?~663年。「<百済の>義慈王の父である第30代武王(余璋)の甥。・・・
 <義慈王の息子で日本で人質になっていた>豊璋は・・・662年5月に<帰>国した。このとき福信は王を迎えに出て、国政をみな委ねた。・・・<しかし、>7月、・・・豊璋・・・は福信が自分を殺そうとしていることを察知し、逆に、これを殺した。・・・
 <その>2か月後白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が大敗した。・・・
 <ちなみに、>福信の近親者と思われる鬼室集斯は・・・665年・・・に福信の功績によって天智天皇から・・・百済の民男女四百余名と近江国・・・に住居を与えられた・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%AE%A4%E7%A6%8F%E4%BF%A1
 (注47)続守言(しょく しゅげん)ら。「続守言はその後、同じく渡来唐人であった薩弘恪とともに朝廷に仕え、・・・『日本書紀』には<691年当時、>続守言・薩弘恪は音博士であったと記されている。これは儒教の経書を読む際に、当時の唐語(漢音)による音読法を教えるための役職であった・・・。<続守言は、>このほか、飛鳥浄御原令の選定や、<日本書紀>の編纂事業にも関わったと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E5%AE%88%E8%A8%80
 法の整備によって国内の充実を目指す斉明に対して、武力進出による国土の拡張を是とする中大兄の対抗<があったが、>・・・とにかく救援は許可された。
 女帝が筑紫への動座を承諾したのは、それが非戦を貫く最後の砦、軍勢を圧力として留める波打際だったからだ。・・・」(76、85~85)
⇒入江は、このあたり、執拗に、平和志向の斉明 v. 戦争志向の中大兄、的な書き方をしていますが、根拠があるとは思えません。(太田)
 斉明は、「圧迫すれども干戈は交えず」という推古の新年を繋ぐ女帝として間人を選び、その翌日<の[斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87 ]、>息をひきとった。
 中大兄にだけは譲位しないという意志をつらぬいた裏には、王位への妨げとなる王族をすでに二人まで殺してきた彼<(注48)>に、この妹だけは殺せないだろう、という皮肉な挑発もあったかもしれない。
 (注48)一人目は古人大江(前出)で、二人目は、取り上げなかったが、「孝徳天皇の皇子、・・・<斉明>天皇への謀反計画が発覚し、処刑された」有間皇子(ありまのみこ。640~658年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%96%93%E7%9A%87%E5%AD%90
⇒入江は、「斉明天皇の死後に間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説<、すなわち、>『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女と<し>、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来ると<する説>」(上掲)に拠っているところ、私自身、「君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること」である、称制、を、中大兄が日本において、この時初めて行った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%B0%E5%88%B6
ことについて、説得力ある理由が見当たらない(注49)だけに、この間人天皇即位説に傾いています。
 (注49)同父同母兄妹との密通というタブーを犯した中大兄は、天皇に即位すれば神の祟りが起きるとの世論に配慮し、母を斉明として重祚させ、また、妹を即位させざるをえなかった、という、詠み人知らずの説
http://rekishi-club.com/?p=5161
は面白いが、正式の婚姻関係になかったこの二人のケースが、当時、それほどのタブーと受け止められた、とは到底思えない。
 但し、間人の即位は、入江の言うような斉明の遺志によるものというより、「女帝/権威(女)・権力(男)」体制、が「復活」したところの、「推古・聖徳太子」政体以来、「皇極・中大兄皇子」、「斉明・中大兄皇子」、という形で、二度の中断はあったものの、この政体が基本的に続いてきていたところへ、朝鮮半島有事であったこともあり、今度は中断なしに、コンセンサス的に「間人・中大兄皇子」政体へ移行したものであろう、というのが私の見立てです。(太田)
(続く)