太田述正コラム#9339(2017.9.14)
<アングロサクソンと仏教–米国篇(その3)>(2017.12.28公開)
 「仏教について、書いたり読んだりする誰もが、重要な(critical)疑問に直面する。
 本当のところ、仏教とは一体何なのだ、という・・。
 超自然的な神々(deities)と輪廻を完全に備えたところの、宗教なのか、それとも、人生についての世俗的な哲学なのか、もしくは、イデオロギーなのか、いや、これら全てなのか。
 著者は、解答をこの本の初めの方で線描している。
 人生とその諸問題に対する概ね世俗的な、しかし、精神的次元も欠けていない、アプローチであるところの、欧米的仏教とでも呼べるかもしれない、説得力ある(credible)混合物(blend)<である、ということ>で手を打つ(settle)。
 このアプローチの中心的存在(centerpiece)は、マインドフル瞑想(mindful meditation)だ。
 この本の狙い(goal)は野心的だ。
 すなわち、「人間の苦(predicament)についての仏教の診断は基本的に正しく、それに対する処方箋は極めて正しく(valid)<、かつそれが>まことにもって重要である」、と証明することだ。
 苦悩(suffering)に焦点を絞った上で、人間の苦の重要な諸様相と取り組む(address)、と仏教が主張するのは妥当である、と。
 また、仏教が提供する処方箋が、その苦を解決するのに適用できかつ役立つであろう、と示唆することも妥当である、と。
 著者は、彼の諸証明を生み出し、仏教が「本当である(true)」、との観念を支えるために、著者は、科学、とりわけ、進化心理学、認知科学、及び、神経科学、に依拠する。
 これは道理にかなった(sensible)アプローチであり、仏教との関係では、それは最も主流<のアプローチ>なのだ。
 <ちなみに、彼らと>何年にもわたって、何度も面会しているが、私<(書評子)>は、ダライ・ラマと彼の取り巻き達が、科学に大いに興味があることを見出してきたところだ。
 著者はこの任に堪えうる。
 というのも、彼は仏教徒であって、科学的観点から、宗教と道徳性について書いてきており、彼は、彼の1994年の本である『道徳的動物(The Moral Animal)』でもって最も有名だからだ。」(B)
 「<この本では、>仏教の諸基本(basics)が全て書かれている。
 すなわち、紀元前400年前後のいつか・・何が歴史的に真実で(authentic)で何がそうでないかを巡る諸議論は、イエスに関する諸研究における、これに相当する諸議論に比べて更に不透明だが、ゴータマ(Gotama)・・彼の名前のパーリ語版表示・・という名前の一人の金持ちのインドの若い王子が、長きにわたった、心動かされる精神的格闘の後、我々が抱懐する諸事柄は不可避的に変化して腐り、諸欲望(desires)は不可避的に失望させられるから人々は苦悩(suffer)する、ということを自覚するに至った。
 しかし、彼は、単に座って息をすることで、人々は、諸欲望と諸失望という通常の成行から離脱(disengage)し始め、この座った人物が、かくも一心不乱に仕えてきたところの、これらの全ての諸ニーズ(needs)によって苦悩している、自身、が幻想(illusion)であること、を把握するに至りうる、ということも併せて自覚した。
 自身の諸不安(anxieties)と諸嗜好(appetites)と恒常的かつ癇癖的な諸要求(demands)から解放されることによって、この瞑想者は、他者達との実存(existence)の諸現実態を見て<それらを>共有することができる、とも。
⇒簡単過ぎてこれだけでは分からないのですが、人間主義が、仏教というか、釈迦の教えの核心であることを、著者や書評子達が自覚しているようには見えません。(太田)
 <こうして、>この座った人物は、より利己的でなくなり、より非利己的になる。」(D)
(続く)