太田述正コラム#9343(2017.9.16)
<アングロサクソンと仏教–米国篇(その5)>(2017.12.30公開)
(3)著者の主張の要約
「著者の基本的な諸提案についての私の受け止め方は次の通りだ。
第一に、瞑想の有益な(beneficial)諸力は、我々の激情的諸対応とそれらが生起させる帰結的諸感情・・それらは、我々の意識的な(deliberate)統制の外で自動的な装いで動いている(operate)・・が、それらを引き起こした諸状況に比して逆効果である、ということを、それらが自覚させる可能性に由来する。
第二に、諸原因と諸対応との間のミスマッチは、進化に根がある。
我々は、非人間及び人間の前走者達から、我々のとは極めて異なった生活諸事情に適合的であるところの、<我々が>好んで用いる仕組み(apparatus)を受け継いでいる。
我々の神経諸系の異なった諸部位によって統制されているところの、この仕組みは、自然淘汰によって創造されたものだが、長い期間に渡って遺伝子的に受け渡されることによって維持されてきた(assisted)。
それは、非人間たる霊長類において、そして、後には人間の狩猟採集者達において、はうまく機能したが、諸文化がより複雑になるにつれて、はるかにうまく機能しなくなった。
⇒この書評子による、著者の主張の受け止め方は、私のかねてからの考え・・人間が変わったのではなく、人間の環境が変わった・・に近いようにも読めますが、恐らくこれは正しい受け止め方ではないのでしょう。
(これは微妙なところではあるものの、人間以外の霊長類は、その一部たりとも、人間主義者である、とは必ずしも言い難いから、ということもあるのですが、)著者の主張は、「うまく機能しなくなった」結果、自然淘汰によって「機能」するような形に進化(退化)した、というものであろう、と見てとったばかりだからです。(太田)
第三に、瞑想は、我々をして、自身が我々の諸意思決定の指図者(director)であるとの観念は幻想であって、我々が、<自身によって>弱くしか統制されていないシステムに弄ばれる程度が<大きいことが、>我々をかなり不利な立場に置いている、と自覚することを可能ならしめる。
第四に、瞑想によってもたらされる気付き(awareness)が、真に啓蒙された人間性を構築すること、かつ、現代社会において次第に募る身内優先主義に抗すること、に資する。」(B)
⇒(私の言う)人間主義について、「身内優先主義に抗する」という、ふんわりした、かつ、自身中心的な受け止め方をこの書評子がしているのは、第二の場合とは逆に、恐らくこれは、著者の主張の正しい受け止め方なのでしょう。
つまり、著者は、(そして恐らくは米国の瞑想実践者達ないし自称仏教徒達一般は、)人間主義が仏教というか釈迦の教えの核心である・・きちんと説明するのは他日を期したいが、私の認識では、少なくともこれこそ北伝仏教、とりわけ日本の仏教、の核心・・との認識が、既に申し上げたように、極めて弱い、ということです。(太田)
(4)著者の主張–瞑想を中心に
何百万人もの欧米人達によって実践されている、マインドフルネス瞑想は、糞(bullshit)なのか?
<もとより、>無価値であるという意味での糞ではない。
アダム・グラント(Adam Grant)<(注2)>ですら、瞑想は諸効用(benefits)があることを認めているし、若干の人々にとっては、諸効用を得る最善の方法なのだ。
(注2)1981年~。米国の著述家でペンシルヴァニア大ビジネススクール(Wharton School)教授。ハーヴァード大卒、ミシガン大修士、博士(組織心理学)。北カロライナ大チャペルヒル校助教、上記ビジネススクール准教授を経て現職。
https://en.wikipedia.org/wiki/Adam_Grant
しかし、瞑想の実践は、その仏教の諸ルーツから脇に余りにも遠く逸れたために、我々は、それをむしろ、セラピーないし趣味(hobby)と呼ぶべきなのかもしれない。
⇒ここは、著者自身による解説なのですが、あたかも、私の批判を意識しているかのようなくだりですね。(太田)
(続く)
アングロサクソンと仏教–米国篇(その5)
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