太田述正コラム#0510(2004.10.22)
<米国独立が決まった瞬間?(その1)>

1 始めに

 1976年12月26日のニュージャージー州トレントン(Trenton, New Jersey)の戦いでの大陸軍(Continental Army)の起死回生の勝利こそ、米国独立が決まった瞬間だ、と喝破したのが米ブランダイス(Brandeis)大学歴史学教授のフィッシャー(David Hackett Fischer)です。
 (以下、トレントン等の戦いについてはhttp://www.csmonitor.com/2004/1019/p16s01-bogn.htmlhttp://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=1573202http://www.americanrevolution.com/WashingtonsCrossingBook.htmhttp://www.nationalreview.com/books/beran200404301421.asphttp://query.nytimes.com/search/article-printpage.html?res=9B05EED8133BF936A25751C0A9629C8B63http://www.chroniclesmagazine.org/Chronicles/August2004/0804Trask.html、及びhttp://www.buzzle.com/editorials/3-18-2004-51847.asp(以下)、コンコルド等の戦いについては、http://66.102.7.104/search?q=cache:2u876an3gXcJ:www.city-net.com/~davekle/revere.htm++Paul+Revere%E2%80%99s+Ride&hl=jahttp://rjohara.net/reviews/fischer.html、及びhttp://rjohara.net/gen/wars/minuteman.html(いずれも10月21日アクセス)による。)
 1775年から始まった米独立戦争は、トレントンの戦い以後も1781年まで5年間も続くのですから、このフィッシャーの指摘はややオーバーですが、この戦いでの勝利は独立戦争における転回点であったことは間違いありません。
 以下、そのことをご説明した上で、最後に米独立戦争との関連でイラクの現状に思いをはせることにましょう。

2 トレントンの戦いの位置づけ

 (1)背景
1764年に砂糖法(Sugar Act)、1765年に印紙法(Stamp Act)、1767年にタウンシェンド法(Townshend Act。ガラス、鉛、紙、ペンキ、茶に課税)が英本国によって制定されると、北米植民地では、これに対する強い反発が生じ、翌1770年にいわゆるボストン大虐殺事件(Boston Massacre)が起きると、単なる酔っぱらいの暴徒が引きおこしたところの、この英本国兵による群衆5名射殺事件を、反英本国派がプレイアップした(http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0393314839/ref%3Dnosim/collegiateway/104-1104753-7615142及びhttp://www.sjchs-history.org/massacre.html。10月21日アクセス)こともあり、次第に独立を目指す気運が高まります。1773年にはいわゆるボストン茶会事件(Boston Tea Party)が起こり、1774年には第一回大陸会議が開かれます(コラム#503)。
1775年4月には、マサチューセッツ州コンコルド(Concord)の民兵武器弾薬庫の武器弾薬押収にボストンから向かった英本国軍部隊を植民地の各州の民兵が襲ってボストンに逃げ帰らせた、コンコルドとレキシントン(Lexington)での戦いが起こり、独立戦争の火ぶたが切って落とされます。その5月に開催された第二回大陸会議は5月に植民地各州合同の大陸軍をつくり、6月にはワシントンを総司令官に任命します(コラム#503)。窮地に立たされた英国は、1776年3月に北米植民地の主力部隊をボストンから本国に撤退させます。
 (以上の事実関係は、特に断っていない限りhttp://www.usgennet.org/usa/topic/revwar/timeline.html(10月22日アクセス)による。)

 (2)トレントン・プリンストンの戦い
 米独立宣言が発せられた1776年7月4日からまもない8月、ハウ兄弟(いずれも貴族。Richard Howe海軍大将が海上総司令官、William Howe陸軍大将が陸上総司令官)の指揮の下、100隻以上の船に22,000人の英本国兵と10,000人のヘッセ傭兵合計32,000人を乗せた大船団が大西洋を渡り、ニューヨーク市に攻撃、上陸しました。
 これは1281年の弘安の役の時の蒙古軍4,400隻14万人((http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse036.html。10月22日アクセス)には比ぶべくもありませんが、それまでの欧州・イギリス史においては、空前の規模の海上遠征軍でした。
 英本国軍は、11月まで続いたニューヨーク市の戦い(ロングアイランドの戦い等)で大陸軍をい破った後、12月時点には、ニューヨーク市のほか、ロードアイランド州とニュージャージー州の大部分を占領、ペンシルバニア州の東南端のフィラデルフィアに迫っており、(ペンシルバニア州とニュージャージー州の州境を流れる)デラウェア川が完全に凍結したら渡河してフィラデルフィアをつく予定でした。その頃には英本国派の民兵も編成されるに至っており、各州住民の中から遠征軍に忠誠を誓う者が続出していました。ワシントン指揮する大陸軍は、かつて30,000人の兵力だったというのに、わずか3,000人まで減っており、デラウェア川の西岸で思案に暮れていました。
 この絶望的な状況下で、ワシントンは、その大部分が金槌であった兵士達に、音をたてないように、かつ逃亡したら殺すと申し渡した上で、2,400人の兵力で、漆黒の夜間、厳冬で雪が降る中、氷の浮かぶ急流のデラウェア川を舟艇で渡り、翌朝、トレントンの砦に駐屯していたヘッセ軍1,500人に奇襲をかけ、2時間の戦闘でその半数以上の900人を殺害または捕虜にしました。
 その数日後、コーンウォリス(Charles Cornwallis。貴族・陸軍中将)指揮する英本国軍が逆襲してきたトレントンでの二度目の戦いにもかろうじて勝利を収めたワシントンは、更に翌年の1月初頭、トレントンの北方のプリンストン(Princeton)で英本国軍の一個旅団を撃破します。
 この一連の戦いは大陸軍にとって、英本国遠征軍に対する最初の勝利であり、ここに英本国軍の進撃は止まり、大陸軍は態勢立て直しに成功するのです。

(続く)