太田述正コラム#9469(2017.11.18)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その12)>(2018.3.5公開)
「フィンランドの独立をめざす動きも生まれていく。
1915年から16年にかけて、2000人の若者が密かにドイツへ軍事訓練を受けに行き、そこから「イェーガー(ヤーカリ)隊」という軍事組織が組織された。
隊員の平均年齢は23.5歳。
多くが地方出身者で、農民か労働者階級であった。
つまり、貧しい被支配者階級が武力での独立を目論んだのである。・・・
彼らは実際にドイツ側でロシア軍と戦い、実践を積み、きたるべき独立への戦いに備えた。・・・
1917年3月・・・17日にはロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世が退位し、アレクサンドル・ケレンスキー<(コラム#1885、3526、3528、3667、6130、8956)>(1881~1970)が率いる臨時政府が成立した。
この臨時政府は、フィンランドに対して1912年に発布された平等法などの「ロシア化」政策をすべて止めると宣言<した。>・・・
12月4日、スヴィンフッヴド<(注25)>が率いる青年フィン人党を中心としたブルジョア諸政党は議会に独立宣言を立案した。
(注25)ペール・スヴィンヒュー(Pehr Svinhufvud。1861~1944年。芬首相:1917.11~1918.5、1930~31年)。同大統領:1931~37年)。「スウェーデン系フィンランド人。・・・ヘルシンキ大<卒の>・・・弁護士、裁判官・・・。1907年、議会代議員に選出され、その初代議長となった。青年フィンランド党右派に属した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC
彼の姓の読み方についても、この邦語ウィキペディアの方が間違っているのだろう。
対して社会民主党は、独立を宣言することに同意しつつも、穏便に独立を果たすために、レーニンらのソヴィエト・ロシアとの協議を主張した。
両者の意見は平行線をたどり、議会でその是非を問う投票が行われた。
その結果、100対88でソヴィエト・ロシアとの事前協議なしでスヴィンフッヴドらが提案した独立宣言を発することが決定される。
1917年12月6日、スヴィンフッヴドはついにロシアからの独立を宣言し、以降、この日がフィンランドの独立記念日となる。
翌日には新聞などを通して民衆もフィンランドの独立を知る。
そして年末にフィンランド代表は<サンクトペテルブルク改め>ペトログラードに行き、レーニンらと交渉し、ボリシェヴィキ政権から独立の承認を獲得する。
ボリシェヴィキ政権はなぜフィンランドの独立を承認したのだろうか。
第一に、ボリシェヴィキの綱領にはすべての民族の自決権が謳われていたこと、第二にロシアに続いてフィンランドでも革命が起こり、その結果、ロシアとフィンランドはともに社会主義の国家を建設するだろうとするレーニンの目論見があったとされる。
⇒「とされる」というのですから、石野は、典拠を記すべきでしたが、到底首肯し難い説です。
当時は、第一次世界大戦の最中であり、ロシアは、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三「国」、をドイツ軍に占領され、ドイツ軍は当時の首都であるサンクトペテルブルクに迫りつつありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88%EF%BC%9D%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9D%A1%E7%B4%84
そんな中で、フィンランドの独立要求を拒んだとて、その意思を押し付けるためにフィンランド・・フィンランドとの境界線はサンクトペテルブルクと目と鼻の先にあった・・において、軍事行動を起こす余裕など、レーニンには全くなかった、と考えるのが自然でしょう。
ところで、上掲のウィキペディアが、「現代のロシアの西側の国境はクリミア半島を除き、ブレスト=リトフスク条約締結時の国境線とおおよそ同じである。」と記しているのは目から鱗です。
まさに、「現代」ならぬ「現在只今」の「ロシアの西側の国境はクリミア半島を」含め、「ブレスト=リトフスク条約締結時の国境線とおおよそ同じである。」というのですからね。
我々は歴史によって規定されている、という感を改めて深くします。(太田)
このボリシェヴィキ政権の独立承認を受けて、その後、すぐにスウェーデン、フランスが、続いてデンマーク、ノルウェー、ドイツがフィンランドの独立を承認した。
しかし、イギリスとアメリカは、フィンランドが交戦中のドイツに付くのではと警戒し、1919年5月まで独立を認めなかった。」(99~100、102~103)
(続く)