太田述正コラム#9471(2017.11.19)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その13)>(2018.3.5公開)
「1918年1月9日、白衛隊と赤衛隊の間で最初の軍事衝突がヘルシンキ北東・・・で起こった。
その後も小競り合いが続くなか、13日にレーニンが一万挺のライフル銃と10門の大砲を赤衛隊に譲渡することを約束する。
一方、政府はロシア帝国軍で活躍したカール・グスタヴ・マンネルヘイム<(注26)>(1867~1951)を軍事委員会の新しい代表者に招き、1月25日に白衛隊を政府軍であると宣言する。
(注26)「父はリベラルで急進的な思想を持つ劇作家である一方、製紙会社を起業していた。母は・・・鉄器<の>生産業者・・・の娘であった。母方の祖先はスウェーデンの・・・出身とされる。マンネルヘイム家はドイツ人の実務家でハンブルクの工場の経営者、ハインリッヒ・マーヘイム(1618年 – 1667年)が元とされ、マーヘイムはスウェーデン・・・へ移住・・・した<ところ、>・・・<そ>の息子・・・は1693年に苗字の響きの良さをあげるために苗字を「マンネルハイム」と変えた。<更に、そ>の息子・・・は大佐で工場監督となり、<その>兄弟とともに1768年に男爵の地位まで上がった。<彼>がフィンランドに移ったのは18世紀のことである。・・・1825年に<彼>は更に伯爵の称号を得た。・・・<その>彼の<ひ>孫がカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムである。
マンネルヘイムはスウェーデン語で育ったが7歳になるとヘルシンキの学校へ進み、フィンランド語で教育を受けた。・・・
<ちなみに、>マンネルヘイムは母語であるスウェーデン語のほかに、フィンランド語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、英語を覚えた。1887年から1917年のロシア軍での兵役の中で、子供時代に覚えたフィンランド語の多くを忘れてしまい、後年再びフィンランド語を学習しなければならなかった 。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%A0
⇒これまで、登場人物といったら、スウェーデン(ゲルマン)系ばかりですが、その中でも、マンネルヘイムは、とりわけ、血沸き肉躍る、興味深い生涯を送っており、上掲全体に目を通すことをお勧めします。
なお、彼が5ヶ国語を身につけていたことについては、欧州文明の多くの地域、及び、地中海地域、の中産階級以上の人々で3ヶ国語程度を身につけているケースはざらである・・そうしないと、まともな社会・経済生活を営めない(私のエジプト等での知見)・・ことからして、さほど驚くべきことではありません。(太田)
マンネルヘイムは・・・実家の経済的破綻によって軍人の道を選択、紆余曲折したものの、1889年にロシア帝国陸軍に所属すると才能を発揮し、軍のなかで出世していった。
日露戦争、第一次世界大戦にはロシア兵として参戦。・・・
その後、・・・白衛隊の指揮官として招かれ、1918年1月16日に正式に総司令官に任命された。
マンネルヘイムが率いることになった白衛隊の目的はロシア軍の国外追放、赤衛隊の武装解除であった。
本格的な内戦は、白衛隊が政府軍であると宣言し、それに憤った赤衛隊によって1月27日夜から始まった。・・・
駐留のロシア軍が撤退する際に・・・<同軍から>十分な武器を手にした赤衛隊は・・・革命政権・・・を樹立し、・・・<自分達>こそがフィンランドの新政府であると宣言する。
しかし、・・・白衛軍は徐々に攻勢に転じ、赤衛軍を追いつめていった。・・・
白衛隊の構成員が地主、都市の役人、資産家・・・総数は8万から9万・・・であったのに対し、赤衛隊の構成員は指導者層を除くと都市の労働者と地方の貧農・・・総数は約8万4000人(そのうち4000人がロシア人義勇兵だったとされる)・・・だった。
⇒「イェーガー(ヤーカリ)隊が、1918年2月にフィンランドに帰還し、白衛隊に加わった。」(110)というのですが、これが、総勢約2000人全員だったのか、また、それが白衛隊の8万~9万の内数なのかどうか、石野の記述だけからは明らかではありません。
いずれにせよ、イェーガー構成員達は農民か労働者だった(前出)というのが本当だったとすると、白衛隊の構成員に殆ど農民や労働者がいなかったかのような石野の筆致には疑問符を付けざるをえません。(太田)
両陣営とも職業軍人はほぼいない。・・・
内戦の転換点は3月半ばから4月初めまでの内陸部の<ある>工業都市・・・での戦いであった。・・・
<これに白衛隊が勝利し、>これをきっかけに形勢は逆転する。・・・
<結局、白衛隊が、5月16日に勝利宣言をする運びになるのだが、その背景として、>白衛隊は・・・ドイツで軍事訓練を受けたイェーガー隊の将校らが中心となって組織をを再編成<した上、>スウェーデン人が義勇兵として・・・加わった<のに対し、>・・・3月3日に・・・ブレスト=リトフスク条約によって、フィンランドに残っていた2万5000人のロシア軍<が>撤退<し>た<、ということがある。>・・・
<最後のとどめを刺したのが、>マンネルヘイム<自身>は反対した<のだが、>・・・政府の要請によって・・・ドイツの・・・<1万人内外からなる1個>師団が・・・白衛隊に合流<したことだ>。」(107~111)
⇒白衛隊の方が赤衛隊よりも、最高指揮官も、(また、石野の主張をここでは鵜呑みにすることとすれば、「質」的には、有産階級>労農階級であることから)構成員達も、「質」が高かった以上、総兵力とそのうちのプロ/セミプロの兵士の割合が双方ほぼ同じであれば、武器の質量が拮抗した時点で、前者が勝利を収めるのが自然でしょうが、そんなことよりもっと決定的だったのは、ドイツ軍がロシア軍に大攻勢をかけていて、総崩れ寸前であったところの、ロシア(ボルシェヴィキ)側が、降伏に等しい条約をドイツ側と締結する前後にこの内戦が並行して進行したことであり、それだけで、最初から、赤衛隊が白衛隊に勝利する可能性はゼロであった、と言うべきでしょうね。(太田)
(続く)