太田述正コラム#9473(2017.11.20)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その14)>(2018.3.6公開)
「内戦の勝敗が明らかになると、赤衛隊の指導者らはロシアのカレリア地方に亡命し、1918年8月にモスクワで共産党政権を樹立する。
一方、捕まったほとんどの赤衛隊の兵士は収容所に送られた。
その人数は4万とも8万とも言われ、あまりの多さに、ヘルシンキ湾に浮かぶ海の要塞スオメンリンナ<(注27)>も収容所として利用された(1991年に世界遺産に認定)。
(注27)「ヘルシンキ市内の6つの島の上に建造された海防要塞。・・・当初の名前はスヴェアボリ(Sveaborg, スウェーデンの要塞)だったが、1918年に愛国主義的な理由からスオメンリンナ(スオミの城塞)と改称された。これは、星型要塞の一例である。
1748年にスウェーデン・・・はロシア・・・に対する守りを目的として要塞の建造に着手した。・・・
フィンランド戦争中の1808年5月3日に要塞はロシア軍に占領され、1809年のロシア軍によるフィンランド占領の足がかりとなった。この時には実害がほとんどなかったが、1855年のクリミア戦争のときには、<英>海軍と<仏>海軍による艦隊の艦砲射撃で損害を被った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AA%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%81%AE%E8%A6%81%E5%A1%9E
「星形要塞は火砲に対応するため15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式。イタリア式築城術、稜堡式城郭、ヴォーバン様式という名で<呼ば>れることもある。・・・
日本の星形要塞<としては、>・・・五稜郭(北海道函館市)<等がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E5%BD%A2%E8%A6%81%E5%A1%9E
その後、裁判にによって550人に死刑宣告が、900人に終身刑が言い渡されたが、翌年の恩赦によって大半は釈放された。
しかし、彼らは1919年まで参政権が剥奪された。
内戦の犠牲者は3万から3万8500人といわれる。
うち3分の1が戦闘ではなく、収容所の劣悪な環境で栄養失調になったり、世界的に流行していたスペイン風邪が原因だった。
また、内戦後に、「白のテロル」「赤のテロル」と呼ばれる、それぞれの陣営での虐殺が行われた。
前線の戦闘行為ではなく、復讐だった。
こうした虐殺により1万人が処刑されたと主張する研究もある。
⇒幕末・維新期の日本の内戦では、戊辰戦争(1868年 – 1869年))の死者が15,000人弱、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/6261228.html
西南戦争(1877年)の死者が13,200人、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89
ですから、人口の大きな差を考えれば、(栄養失調死者ないし戦病死者や私刑による死者の少なさとも相まって、)日本の内戦での死者数の少なさがよく分かりますね。(太田)
この内戦は、2万人もの戦災孤児も生み出した。・・・
ロシアでもフィンランドでも内戦が続いていた1918年3月、「東カレリア遠征」と呼ばれる白衛隊の義勇軍によるカレリア地方<(注28)>占領が行われた。・・・
(注28)カレリア(Karelia)(英)=ケルヤラ(Karjala)(芬)。「フィンランドの南東部からロシアの北西部にかけて広がる森林と湖沼の多い地方の名前である。・・・今日、政治的にはロシア共和国のレニングラード州とカレリア共和国、フィンランドの北カルヤラ県と南カルヤラ県に分割されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%A2
しかし、「近親民族」感情を抱いていたのはフィンランド人だけであった。
実際のカレリアにはカレリア人以外にロシア人やイングリア<(注29)(コラム#8748)>人などが居住し、ロシア文化圏に属していたからである。
(注29)「ネヴァ川流域の、フィンランド湾、ナルヴァ川、ペイプシ湖、ラドガ湖に囲まれた地域の歴史的名称。・・・現在のサンクトペテルブルクを中心とした地域である。・・・イングリアは、元々・・・フィン・ウゴル語派・・・の居住する地勢であった。・・・しかしスラヴ人(東スラヴ人)の北進によって、次第にロシア化された。・・・この地域は、ロシア側から見ると「バルト海への出口」、「西欧への窓」として重要な交易地であった。17世紀初頭のストルボヴァの和約によってスウェーデン領となり、17世紀を通じてバルト帝国を形成したが、18世紀の大北方戦争によってモスクワ国家(ロシア帝国)領となり、サンクトペテルブルクが建設された。イングリア全体は、1721年のニスタット条約によってロシア領と確定し、以後はロシア領として今日に至る。十月革命期には短命ながらイングリア・フィン人による北イングリア共和国が成立し、フィンランドへの合流を模索していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%A2
⇒カレワラ人、イングリア人、は、それぞれ、カレワラの住民、イングリアの住民、という意味しかなさそうである以上、「カレワラには・・・イングリア人などが居住」という表現には違和感を覚えます。(太田)
遠征は現地の住民の支持を得られず、ボリシェヴィキの抵抗も受け、さらに、ムルマンスクに上陸していたイギリスを中心とした<ロシア内戦介入>連合軍との関係悪化にもつながった。
こうした状況にありながらも、遠征は何度も試みられ、「大フィンランド」という思想自体は独立フィンランドで生き続けることになる。」(112~114)
(続く)