太田述正コラム#9481(2017.11.24)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その18)>(2018.3.10公開)
「ここからは国際関係学者の百瀬宏と軍事研究家の斎木伸生の論考を参考にしつつ、フィンランドがソ連と冬戦争に至る経緯を見ていきたい。・・・
⇒石野は、ここで、唐突に典拠、というか、典拠者、を挙げていますが、それをするなら、この本の叙述の全てにおいてそうすべきでしょう。
なお、あえて、フィンランド等の当事国/地域、ないしそれに近い国/地域、の識者に拠らず、日本人の2人の識者に拠った理由も知りたかったところです。(太田)
1939年10月5日、ソ連はあらためてフィンランドに対して相互援助条約締結の交渉を求めてきた。・・・
独ソ不可侵条約を締結したにもかかわらず、ソ連のドイツに対する不信は強かった。
ソ連<は>フィンランドに条約締結と領土交換を求めたの<だが、それは>、フィンランド領を通過してドイツがレニングラード(サンクト・ペテルブルク、ペトログラード)およびソ連北部に侵攻することを恐れていたからである。・・・
フィンランド政府は、当時ソ連のドイツへの危機意識に気づいていなかった。
この外交的思慮の欠落が、のちにフィンランドを苦しい立場に追い込んでいく。・・・
結局、・・・交渉は・・・決裂し、11月13日に<フィンランド>代表団は帰国する。・・・
<すると、>11月・・・30日の朝、突然ソ連空軍はヘルシンキを空爆、同時にソ連陸軍がカレリア地峡の国境線を越えて侵攻する。
「冬戦争」と呼ばれる第一次ソ連・フィンランド戦争の勃発である。・・・
<フィンランド政府>はソ連との対話再開を試みると同時に、国際連盟に仲介を依頼、戦争終結を模索する。
しかし、ソ連はロシア・カレリア地方に傀儡政権を樹立し、その政権こそがフィンランドの正当な政府であると明言、<フィンランド政府>との交渉に応じる態度を見せなかった。・・・
戦局は圧倒的にフィンランド軍が不利だった。
45万人のソ連侵攻軍に対して、フィンランド軍は30万余であり、最初から戦力に大差があったからだ。・・・
しかし、この戦争はのちに「冬戦争の驚異」と呼ばれるほど、フィンランド軍が善戦する。
その大きな要因は大きく三つあった。
第一に、ソ連軍の予測が甘かったことである。
・・・ソ連軍は、フィンランドを一か月以内に占領する計画を立案していた。
そのため冬季の装備が十分ではなく、積雪下の戦闘も経験不足であった。・・・
⇒スウェーデンやフランスの侵攻を冬将軍によって撃退してきていたロシア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC%E5%B0%86%E8%BB%8D
が、12月に、つい最近まで自国の領土であった、北緯の高いところに位置する隣接国に侵攻したというのに、「冬季の装備が十分ではなく、積雪下の戦闘も経験不足であった」部隊を投入する、などということがありえるとは思えません。
石野は、少なくとも著しく舌足らずではないでしょうか。(太田)
第二に、フィンランド軍の周到な準備と巧みな戦術である。・・・
なお、フィンランド軍には射撃の名手も多かった。
なかでもソ連軍から「白い死神」と恐れられ伝説の狙撃手となったシモ・ヘイヘ<(注34)>(ハウハ。1905~2002)は名高い。
(注34)「冬戦争では、予備役兵長として招集され、フィンランド国防陸軍第12師団第34連隊第6中隊(通称カワウ中隊)に配属され、故郷の町に近いコッラー川の周辺での防衛任務に就いた。同第6中隊の指揮官は、フランス外国人部隊勤務経験を持ち「モロッコの恐怖」と綽名されたアールネ・ユーティライネン中尉。ユーティライネン中尉は、民間防衛隊での射撃成績等から判断し、ヘイヘを特定の小隊に配属せず、最も能力を有効に発揮できる狙撃兵の任務を与えた。
狙撃においては、フィンランドが独立後、旧宗主国のロシア帝国が開発したモシン・ナガンM1891を土台に改良したモシン・ナガンM28を使用していた。・・・モシン・ナガンには3.5倍から4倍の倍率を持ったスコープが装着できたが、ヘイヘはスコープを使用せず、銃身に付いた鉄製の照星と照門のみで狙撃を行った。これは、猟師時代からの射撃姿勢への慣れと装備の軽量化に加え、スコープのレンズによる光の反射で位置を悟られるのを嫌ったことによる。・・・
狙撃の技術は入隊前に営んでいたケワタガモ猟で培われたものと言われ、・・・公式確認戦果の542人は世界最多記録として知られるが、このなかには狙撃銃以外の火器による殺害数は含まれていない。サブマシンガンの名手でもあり、“殺戮の丘”の戦闘ではKP31サブマシンガンを用いて、記録では200人以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した542人よりも多くの敵兵士を殺害したと言われている。これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間のうちに残されて<いる。>・・・
終戦後、・・・兵長から少尉へと5階級もの特進を果たした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%98
⇒ここでは、石野は、ヘイヘを褒めるのはともかく、邦語ウィキペディア(上掲)のように、その上官のユーティライネン中尉も、というか、その中尉こそ褒めなければなりませんでした。
狙撃の名手など、大方、どこの軍隊にも存在するものですが、彼らを生かすも殺すも、上官次第だからです。
また、この伝で行けば、フィンランド軍最高司令官のマンネルヘイムについて、彼が最高司令官になったことが間接的にしか書かれていないこと、そして、彼がやったことも、マンネルヘイム・ラインが構築された、という間接的記述に留められていること、も、いかがなものかと思います。(太田)
この戦争で彼は542名を射殺したが、これは史上最多の確認記録である。・・・
第三に地形と天候である。
主戦場となったカレリア地峡をフィンランド軍は熟知していた。
⇒カレリア地峡は、ついその直前までロシアの首都であったところの、サンクトペテルブルクの目と鼻の先に位置する地域ですし、先ほども記したように、そもそも、フィンランドはロシアの一部だったわけですから、カレリア地峡をロシア軍は熟知していなかった、と言われても狐につままれたような気にさせられるだけです。
石野は、少なくとも、著しく説明不足です。(太田)
また森林が広がるこの地域では、ソ連軍の戦車の移動は道路に限定されていた。
フィンランド軍は道路を封鎖し、戦車の進入を阻止する。
さらにスキー部隊を編成し、森のなかを自由に動きまわり、ソ連軍を奇襲した。
<また、>フィンランド軍は酒ビンにガソリンやタールなどを入れた「モロトフ・カクテル(ソ連外相モロトフの名をとった)」<(注35)>と呼んだ火炎瓶でソ連軍の戦車に立ち向かった。・・・
(注35)「モロトフ・・・は冬戦争でのフィンランドに対する最初の空爆行為に関し、「資本家階級に搾取されているフィンランドの労働者への援助のため、パンを投下した」などと発言した。フィンランド兵はこれを皮肉って、実際に投下された小型焼夷弾を収納するコンテナやそれを投下した爆撃機のことを「モロトフのパン籠」と呼ぶようになった。ここから転じ、火炎瓶のことを「モロトフ(に捧げる特別製の)カクテル」という皮肉のこもった通称で呼びはじめたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%95%E7%81%AB%E7%82%8E%E6%89%8B%E6%A6%B4%E5%BC%BE
また、この年は当時観測史上二番目を記録する寒さで、零下40度を下回る地域もあった。
防寒に備えたフィンランド軍は、積雪の森林のなかで熟知した地理を背景に強みを発揮した。・・・
短期間で勝利すると見込んでいたソ連軍は戦術を変えざるを得ず、1940年2月、60万もの兵士の増員を決断する。
ソ連のフィンランド侵攻を問題視した国際連盟はソ連を除名処分とした。
だが、フィンランドが期待していた支援の軍隊はどこからも送られることはなかった。
フィンランド軍が勇戦するなか、3月に入るとイギリス、フランスをはじめとする連合国による軍事介入の可能性が囁かれるようになる。
フィンランド政府はそれを背景にソ連側に和平交渉を求めた。・・・
1940年3月8日・・・休戦会談が開始された。・・・
ソ連は1939年12月にカレリア地峡に樹立されたフィンランド民主共和国を「フィンランド」とみなしており、スターリンはフィンランド本国を正式な国家として認めようとしなった。
冬戦争ではフィンランド民主共和国にフィンランドを併合することを目的としていた。
だが、この時点でフィンランドと休戦条約を締結するということは、フィンランド本国を認めざるを得なかったことを意味した。
つまり、フィンランドは自国の存在をソ連に認めさせたという点ではソ連「に「勝利」したのである。
3月12日にモスクワで講和条約が締結され、翌日に冬戦争は終結した。
この条約で、フィンランドはソ連による領土、軍事基地の貸与、賠償金の要求を受け入れる。
それはソ連が1939年に提示した領土交換以上のものであったことは言うまでもない。
⇒石野自身が、冬戦争で芬ソのどちらが勝ったと思っているのか、定かではない叙述ぶりですが、ソ連が戦争目的を達成した以上、フィンランドが「敗北」したことは明らかでしょう。(太田)
カレリア地峡をはじめソ連と国境を接する全国土の10分の1を割譲し、フィンランド政府が1939年の交渉で最後まで拒否したバルト海沿岸のハンコ岬をソ連に30年間貸与することにもなった。・・・
3ヵ月に及んだ冬戦争は、ソ連が13万1000人の犠牲者を出したのに対し、フィンランドは2万4000人であり、フィンランド優位の戦いであった。」(146~147、150~153、155~156、158~161)
⇒戦死者の数だけ見れば、ソ連は惨敗したわけですが、そんなことは戦争の勝ち負けとは何の関係もないことが、この冬戦争からも分かります。
ところで、「独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1128万人、ドイツ兵が500万人であ<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E6%88%A6
ところ、ドイツが攻勢をかけていた時点で、独ソが停戦していたとすれば、戦死者の数の開きが、冬戦争並みの5~6倍であった、としても私は驚きません。
要は、ゲルマン系軍隊とスラブ系軍隊が戦えば、装備が概ね同等であっても、通常、後者が戦死者数では惨敗する、ということです。
これは、兵士の平均的資質もさることながら、ゲルマン系とスラブ系の指揮官達の資質の差によるところが大きい、と私は見ています。
そうであるとすれば、石野は、フィンランド軍の、マンネルヘイムやユーティライネンらの指揮官達、に言及しないで済ますわけにはいかなかった、と私は考えている次第です。(太田)
(続く)