太田述正コラム#9491(2017.11.29)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その23)>(2018.3.15公開)
「冷戦期は、さまざまな出版や映画が花開いた時期であったが、他方でフィンランドではソ連を批判するような表現に対しては自主的に規制する、つまり「自己検閲」を行っていた。
自己検閲は1944年の休戦条約締結後、すぐに始まった。
休戦条約には出版の規制条項はなかったが、第21条にフィンランドはただちに親ヒトラー組織を解散させることと、国際連合、特にソ連に敵対するようなプロパガンダを行う組織も解散させるようにと規定されていた。
ソ連はこの第21条を盾に、ソ連への批判を封じるようにフィンランドに圧力をかけてきたのである。・・・
このようなフィンランドの中立政策に疑問を投げかける人物がソ連に現れる。
1964年のフルシチョフ失脚後、実権を手に入れたレオニード・ブレジネフ(1906~82)である。・・・
<しかし、それだけのことだった。>
1956年からフィンランドは国連のもとでのPKOにも参加し始め・・・国際的な評価を得るようになってい<っ>た。・・・
<また、>フィンランドはデタント(緊張緩和)の時代、アメリカとソ連の間で行われた核兵器の数を制限する条約であるSALTI(第一次戦略兵器制限交渉)の交渉を1969年にヘルシンキで開始するなど、東西の仲介役としての役割を果たすことで、中立国としての立ち位置を維持しようと試み・・・た。
1975年7~8月には、欧州安全保障協力会議(CSCE)がヘルシンキで開催され、アメリカ、ソ連を含むヨーロッパ各国の首脳が集ま<り、>・・・「ヘルシンキ最終文書」が採択される。・・・
<この>会議の成功は、ソ連の思惑を別としてフィンランドの中立国としての立場を国際的に表明することにもつながった。・・・
1981年10月に、ケッコネンは健康問題を理由に26年にもわたる大統領職を退いた。
大統領選では、社会民主党のマウノ・コイヴィスト<(注41)>(1923~2017)が勝利する。・・・
(注41)マウノ・コイヴィスト・ヘンリク(Mauno Koivisto Henrik。1923~2017年。首相:1968~1970年、1979~1982年。大統領:1982~1994年)。「社会民主党に入党。その後トゥルク大学を卒業し、ヘルシンキ労働者貯蓄銀行に入行・・・財相、・・・フィンランド銀行幹部議長」を経て首相。「フィンランド初の左派系大統領」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88
1989年11月に東西冷戦の象徴っであったベルリンの壁が崩壊し、翌90年3月にドイツが再統一され、91年12月にソ連が崩壊すると、フィンランド政府はその対処に追われる。・・・
1991年4月の選挙で与党に返り咲いた中央党を中心とした保守中道政権である。
首相は中央党党首エスコ・アホ<(注42)>(1954~)。
(注42)エスコ・タパニ・アホ(Esko Tapani Aho。1954年~。首相:1991~1995年)。[ヘルシンキ大修士(社会科学)。]「36歳での首相就任はフィンランド史上最年少」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%9B
https://en.wikipedia.org/wiki/Esko_Aho ([]内)
・・・1992年1月にはロシア連邦と友好条約を締結する。
この条約はFCMA条約とほぼ変わらない内容であったが、軍事条項がない点が大きな違いであった。・・・
⇒こんな条約改定に応じたことは、プーチンが、内心、(自分のメンターであったが故に公言はしていませんが、)エリティンのバカめ、と思っている諸事中の一つであることは間違いないでしょうね。(太田)
1995年1月1日、フィンランドはスウェーデン、オーストリアといった冷戦下、中立政策をとっていた国々とともにEU加盟を果たした。・・・
フィンランドはNATOに<は>加盟していないものの、1994年、平和のためのパートナーシップ(PfP:Partnership for Peace)に加盟<している。>・・・
<それ>以降、NATO主導の平和活動に積極的に参加<してきた>。
たとえば、1996年にボスニア・ヘルツェゴヴィナのNATO主導の平和維持軍に参加、99年にはコソボへ、2002年にはアフガニスタンへ部隊を派遣している。
また、1999年秋にはNATOと平和活動のための軍事演習を行う条約を締結している。」(219、221~223、225~226、231~232、237、240~241)
3 終わりに
この本を読んだおかげで、フィンランドは、長らく帝政ロシアの一部であったけれど、独立してからは、ロシアの北西に位置するところの、ロシアの隣国となったわけであり、その後のフィンランドの歩みは、ロシアの南東に位置するところの、ロシアのもう一つの隣国たる日本の近現代史や未来を考えるにあたって、(両国共資質の高い国民からなる国であることもあって、)参考になる部分が多々あることを痛感させられました。
(フィンランドは、諸隣国中、ロシアに、特別に優遇されてきた部分があることは否めませんが・・。
それにしても、その理由をきちんと解明できなかったことは悔やまれます。)
最近のことで言えば、FCMA条約≒日米安保条約(=保護条約)であったところ、ソ連崩壊を契機に、フィンランドは「独立」し、日本とは全く異なった道を歩み始めたわけです。
この違いのよって来る所以は、フィンランドが、人口的・経済的に、日本とは比較にならないくらい小国という、いわば気楽な立場であったからこそ、とも言えそうですが、戦後、日本と違って、中立政策を標榜しつつ、東西の緊張緩和に、悪く言えば貸座敷業、よく言えば仲介、を通じて貢献してきた、すなわち、国際場裏において、宗主国から「独立」した対外政策を積み重ねてきた、という実績の賜物でもある、と言ってよいのではないでしょうか。
(完)