太田述正コラム#9497(2017.12.2)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その2)>(2018.3.18公開)
「<しかし、ボレスワフ1世の息子の>ミェシュコ2世(在位1025~34)<の時に、早くもポーランドは衰退し始める。
そして、その孫の>ボレスワフ3世(・・・在位1102~38)の治世<には、>・・・ポーランド全体<が、神聖>ローマ帝国の封土・・・<になってしまう>。・・・
13世紀以降に異民族の侵入が相次いだことも・・・不幸であった。
侵入の一つはタタール(モンゴル軍)によるもので、1241年、同軍はシロンスク(ポーランド南西部の地域名)のレグニツァにまで至り、国土を荒廃させたのち撤退した。<(注2)>
(注2)「モンゴルのポーランド侵攻)は、「バトゥの西征」(モンゴルの<欧州>侵攻)のうち、1240年後半から1241年にかけての「トゥルスクの戦い」、「フミェルニクの戦い」、「レグニツァの戦い」、「モヒの戦い」等のシロンスク公ヘンリク2世率いる<ドイツ騎士団>とポーランド軍を壊滅させた諸戦闘の総称である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BE%B5%E6%94%BB
ヘンリク2世ポボジュヌィ(1196?~1241年)は、「ピャスト朝のポーランド大公(在位:1238年 – 1241年)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%AF2%E4%B8%96
<もう一つは>ドイツ騎士団<(注3)だ。>・・・
(注3)「1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は異教徒プルーセン<(プロイセン)>人に対する征討と教化に手を焼いて、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。1228年、皇帝フリードリヒ2世・・・により騎士団のプロイセン領有が認められ、1230年・・・コンラート1世<も>・・・[プロイセン<を>騎士団がコンラト1世と共に分有する権利・・・<を与え>た。]
・・・<同>騎士団は、1230年からプロイセンをキリスト教化するための長い軍事活動を開始する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3
コンラト1世マゾヴィエツキ(Konrad I Mazowiecki。 1187?~1247年)は、「マゾフシェ公(在位:1197年 – 1247年)、ポーランド君主(クラクフ公、在位:1229年 – 1232年、1241年 – 1243年)。・・・マゾフシェ・ピャスト家の祖」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%881%E4%B8%96_(%E3%83%9E%E3%82%BE%E3%83%95%E3%82%B7%E3%82%A7%E5%85%AC) ([]内も)
クルムラント(クルマーランド)の位置は、その中心都市のヘウムノの位置から分かる。1446年にポーランドに「復帰」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A6%E3%83%A0%E3%83%8E
この騎士団は第三回十字軍遠征(1190)の際に創設されていた。
マゾフシェ侯コンラト(マゾフシェの中心都市はワルシャワ)は、1226年、・・・<ドイツ>騎士団を雇い入れた。
1230年にやってきた騎士団は・・・次々と都市を築き、ポーランドを圧迫した。
ドイツ騎士団は1237年に刀剣騎士団<(注4)>(リヴォニア騎士団。リヴォニアは現在のラトヴィアからエストニアにかけての地域)と合同し、いっそう強大となった。・・・
(注4)「リヴォニア帯剣騎士団、正式名称リヴォニアのキリスト騎士修道会・・・は、騎士修道会の一つ。刀剣騎士修道会とも呼ばれる。・・・<但し、>他の騎士修道会とは違い、騎士修道会の総長のさらに上位にリガ司教が君臨していた<等、>・・・聖地エルサレムの守護・奪回や巡礼者の保護を目的としている<ドイツ騎士団等>他の騎士修道会とは本質的に異なっていた・・・1202年に設立、・・・1236年にリトアニアのザウレ(シャウレイ)にてリトアニア軍に惨敗を喫し・・・1237年にドイツ騎士団に吸収された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B8%AF%E5%89%A3%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3
カジミェシュ3世<(注5)>(大王。在位1333~70)<の時代には、>・・・クラクフ大学が創立され・・・また、26の都市に市壁が設けられ、51の城が築かれた。
(注5)カジミェシュ3世ヴィエルキ(Kazimierz III Wielki、1310~1370年)は、「軍事・外交・内政のいずれにおいても大きな成功を収めたため、「カジミェシュ大王」とも称され、また弱小農民を手厚く保護するなどの善政を敷いた経緯から「カジミェシュ農民王」と称されることもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%82%A7%E3%82%B7%E3%83%A53%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
彼は、「1305年よりクラクフ公であ<って>1320年に国王として戴冠した」父、ヴワディスワフ1世ウォキェテク(1260/1261~1333年)からポーランド王位を承継した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%AF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%951%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
15世紀の年代記編纂者ヤン・ドゥゴシュが、カジミェシュ大王を「木の国から煉瓦の国へ」とポーランドを変えた王と評した所以である。・・・
しかし、<他方で、>1343年<に>・・・ドイツ騎士団にグダンスク<等>を奪われ<ている。(注6)>」(7~9)
(注6)「その後、カジミェシュ3世は東方に進出し、・・・ウクライナなどを支配下に収め、ポーランド王国の領土を倍増させ<ている>。」(上掲)
⇒当時、軍事的能力において、モンゴル人>(ドイツ騎士団員等の)ゲルマン人>(ポーランド人等の)スラヴ人、であったことが、何となく分かりますね。
そのことを象徴しているのが、ポーランド王国の維持が恒常的に覚束ない状況です。(太田)
(続く)