太田述正コラム#0520(2004.11.1)
<伊・英・米空軍の創始者の三人(その1)>
1 始めに
ドゥーエ(Guilio Douhet。1869??1930年)・トレンチャード(Hugh Trenchard。1873??1956年)・ミッチェル(William Mitchell。1879??1936年)は、ほぼ同世代の、それぞれイタリア・英国・米国の空軍の祖とされている人々ですが、三者三様のまことに興味深い生涯を送りました。
彼らの生涯を振り返ってみることで、エアーパワー(Air Power=空軍力)が20世紀以降の戦争に及ぼした影響を再確認するとともに、イタリア(欧州)・英国・米国それぞれの20世紀前半におけるエアーパワーとの取り組み方の違いを追究し、この違いが物語る、それぞれの国(地域)の特徴を文明論的に浮き彫りにしてみたいと思います。
(以下、ドゥーエについてはhttp://www.airpower.maxwell.af.mil/airchronicles/apj/6win90.html、http://en.wikipedia.org/wiki/Giulio_Douhet、http://www.comandosupremo.com/Douhet.html、http://www.infoplease.com/ce6/people/A0815990.html、トレンチャードについてはhttp://www.firstworldwar.com/bio/trenchard.htm、http://en.wikipedia.org/wiki/Hugh_Trenchard、英国を中心とする空軍史についてはhttp://www.raf.mod.uk/history/line1780.html、http://www.nationmaster.com/encyclopedia/Royal-Air-Force、ミッチェルについてはhttp://wvwv.essortment.com/billymitchella_rmna.htm、http://www.acepilots.com/wwi/us_mitchell.html、http://www.allstar.fiu.edu/aero/mitchell3.htm、http://www.allstar.fiu.edu/aerojava/mitchell2.htm、http://www.cadre.maxwell.af.mil/ar/MITCHELL/Mitchell.htm、http://www.centennialofflight.gov/essay/Air_Power/mitchell_tests/AP14.htm、http://www.christopherlong.co.uk/per.mitchell.html、http://www.brainyencyclopedia.com/encyclopedia/b/bi/billy_mitchell.html、http://www.cr.nps.gov/nr/travel/aviation/mit.htm、http://history1900s.about.com/library/prm/blbillymitchellside.htm、http://history1900s.about.com/library/prm/blbillymitchell1.htm以下、http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/FWWmitchell.htm、http://www.firstworldwar.com/bio/mitchell.htm、ミッチェルの新しい伝記であるDouglas Waller, A QUESTION OF LOYALTY――Gen. Billy Mitchell and the Court-Martial That Gripped the Nation, Harper Collinsについてはhttp://www.onmilwaukee.com/bars/articles/mitchell.html、http://www.armyairforces.com/forum/m_65509/tm.htm、http://www.flipsideshow.com/Documents/HeroCourtMartialedForDisloyalty.htm、http://search.barnesandnoble.com/booksearch/isbninquiry.asp?userid=2H3gaRDA9X&ean=9780060505479&displayonly=EXC#EXC、http://search.barnesandnoble.com/booksearch/isbninquiry.asp?cds2Pid=164&isbn=0060505478、http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0060505478/002-2399175-2552010?v=glance、http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A7799-2004Oct28?language=printer、による(注1)。いずれも10月31日アクセス)
(注1)随分これ見よがしに典拠を並べ立てたものだ、とあきれるかもしれないが、実際に本シリーズ執筆に用いたものしか挙げていないのでご理解いただきたい。
なお、ドゥーエとトレンチャードに比べてミッチェルの典拠が比較にならないくらい多いことは、必ずしもミッチェルの相対的な偉大さを示すものではない。
インターネットの世界が米国を中心として形成されていることから、米国人ミッチェルが、(特に英語サイトにおいては)より頻繁にインターネットの世界で登場する、というだけのことだ。
2 ドゥーエ
1903年に米国のライト兄弟が飛行機の初飛行に成功してから、飛行機が武器として初めて使用されるまで、わずか8年しかかかりませんでした。
それは、伊土戦争(1911??1912年)中の1911年秋の9機のイタリア軍機によるリビアのオスマントルコ軍爆撃です。作戦の指揮をとったのは、当時既にエアーパワーの重要性を力説し始めていたドゥーエです。この作戦が成果を挙げたことを踏まえ、イタリア陸軍に航空大隊が編成され、その大隊長にドゥーエが就任します。
しかし、彼はことごとにエアーパワーに無理解なイタリア陸軍上層部に食ってかかったため、浮き上がってしまい、独断で新型爆撃機の開発に着手したことを咎められ、この大隊長ポストを解任され、歩兵師団に転属させられてしまいます。
1914年に第一次世界大戦が始まると、ドゥーエは、このままでは敵の航空攻撃でイタリア陸軍は大きな損害を被ることは必至だと警鐘を鳴らすメモを作成し、このメモが外部に漏れてしまいます。このためにドゥーエは逮捕され、軍法会議にかけられ、一年間牢獄にぶち込まれる羽目になります。
ところが、彼が牢獄から出た直後の1917年に、イタリア陸軍はカパレット(Caparetto)でオーストリア=ハンガリー軍の航空部隊の爆撃を受け、60万人もの空前の死傷者を出すのです。
ドゥーエは軍務に復帰するのですが、結局8ヶ月後の翌1918年、イタリア陸軍に見切りをつけて現役を退き、著述活動に入り、その後軍法会議判決が取り消され、将軍に昇任するも、現役に復帰することがないまま、1921年に主著「制空」を上梓します。
この主著の中で、彼は陸軍・海軍から独立した空軍の必要性と、この三軍の中での空軍の最重要性を力説しました。そして、空軍の中心は爆撃機部隊でなければならないとし、爆撃する対象として最も適切なのは一般住民であり、高威力爆弾・焼夷弾・毒ガスを使って一般住民を対象として先制攻撃を行い、その敵国の戦争継続意思を粉砕し、戦争の早期終結を図るべきだと主張しました。つまりドゥーエは、エアーパワー至上主義を唱えつつも、戦略爆撃一辺倒であり、空軍力を防空や陸軍の支援に用いる意義を認めなかったのです。
ムッソリーニが政権を掌握すると、ムッソリーニはドゥーエを航空関係の重要な職に任命しますが、ドゥーエはすぐに辞めて再び執筆活動に戻り、1930年に心臓発作で亡くなります。
ドゥーエの考えは、英国でこそ殆ど無視されたものの、米独仏三国には大きな影響を与えます。
スペイン内戦時の1937年のゲルニカ空爆は、ドゥーエの推奨した戦略爆撃がナチスドイツの手で世界で初めて実行に移されたものであったと言えるでしょう(コラム#423)(注2)。
(注2)もっとも、前田哲男氏は、ドイツ空軍のゲルニカ攻撃より約1年遅れはしたが、1日限りではなく三年間に218次の攻撃回数を記録し、空襲による直接の死者だけで中国側集計によれば1万1885人にのぼった中華民国の当時の臨時首都重慶の日本陸海軍航空部隊による空爆こそ、世界史上初めての戦略爆撃であったとする(http://www2.freejpn.com/~az1156/page166.html。11月1日アクセス)。
(続く)