太田述正コラム#9505(2017.12.6)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その6)>(2018.3.22公開)

 「16世紀初頭から18世紀の分割までの間のポーランドは、「シュラフタ共和国(ジェチュポスポリタ・シュラヘフカ)」の別称で呼ばれることがある(実際には、17世紀にはマグナト<(注14)>寡頭制に移行するのだが)。

 (注14)マグナート(magnat=magnate(英))。「ポーランド・リトアニア共和国では、貴族階級(シュラフタ)に属する人は法的には・・・全て対等だった。したがって、マグナートは・・・非公式な肩書きで、膨大な資産を持つ非常に裕福な貴族を指した。マグナート(すなわち大貴族達)は、下級貴族や君主・・・と政治支配力をめぐって張り合った。・・・1569年のルブリン合同の後、・・・マグナートへの土地集中に拍車がかかり、17世紀の後半頃から、・・・国内の領土のほとんどはマグナートの手中に収まった。マグナートは小貴族達を買収し、地方議会であるセイミクはもちろん、国会であるセイムも掌握した。更に政府や聖職者の高位もマグナート出身者が占めたことから、国王の側近会議であるセナト(元老院)も彼らの手中にあった。
 マグナートは膨大な領地からの収入に加え、セナトなどの政府の職にある時には給与の代わりに王領地の一部が貸与された。更に王領地などを担保として国王に戦費の貸付や軍の動員に協力するなど、国家の運命を左右することが多く、一部のマグナートは国王への不満からロコシュ(rokosz、日本語で「強訴」)と称される反乱を起こすこともあった。その結果国王の権威が軽んじられてポーランド・リトアニア共和国を割拠状態に陥れ、後のポーランド分割の遠因となったと非難されることもある。もっとも、中世・近世のポーランド・リトアニア共和国の文化・芸術が、マグナートの庇護を受けて発達したという側面も有している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88
 16~17世紀におけるマグナートの土地所有状況が分かる地図。↓
https://en.wikipedia.org/wiki/Magnates_of_Poland_and_Lithuania#/media/File:IRPmagnates1.PNG

⇒渡辺は、何の説明もなく、今度は「マグナト」を登場させていますが、まことにもって不親切です。(太田)

 「ジェチュポスポリタ」・・・という言葉は、共和政を表すラテン語の「レス・プブリカ」(res publica)に由来する。
 大まかに言うなら、共和政とは「世襲の君主を持たない政体」のことである。
 ポーランドがこう呼ばれたのは、シュラフタが選挙で国王を選出し、議会を通じて国政を牛耳っていたからである。
 シュラフタ共和国は最盛期にはバルト海から黒海に至る広大な領域を支配下に置いていた。・・・
 ジグムント1世の息子、ジグムント2世アウグスト<(注15)>(即位は1529、実質的な治世は1548~72)には男子継承者がいなかったことから、ポーランドとリトアニアの連合関係を強化しようとする動きが表れ、その結果、1569年、ルブリンで両国連合の調印が行われた(ルブリンの合同)。

 (注15)Zygmunt II August(1520~72年)。「母はボナ・スフォルツァ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%B0%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%882%E4%B8%96
 「ボナ・スフォルツァ<は、>・・・ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとナポリ王女イザベラの間に末娘・・・ポーランドに洗練されたルネサンス文化を持ち込み、繁栄の時代を築いた。・・・イタリア野菜を料理に用いて多くの料理を同国に紹介したので、現在のポーランド料理の母といわれている。夫の死後即位した長男ジグムント2世が、カルヴァン派を信仰するリトアニア人バルバラ・ラジヴィウヴナと結婚すると、国民の大多数を占めるカトリック側に立って反対した。証拠はないが、戴冠後まもない新王妃バルバラに毒を盛って殺したといわれている。
 1556年にバーリへ帰国したが、翌年に個人秘書・・・によって毒殺された。多額の債務をボナに対して負っていたスペイン王フェリペ2世が、借金を帳消しにするために<彼>に暗殺を命じたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A1

 こうしてポーランド・リトアニアは面積およそ81万5000平方キロメートル、人口約750万人の大国となった。
 ルブリンの合同以降、両国は共通の選挙で君主や議員を選出したが、軍事・財政・行政組織に関しては別個の組織を持ち続けた。
 ジグムント2世は、ヤギェウォの戴冠(1386年)以来続いたヤギェウォ朝の最後の王となった。
 これ以降の200年はシュラフタ(中小貴族)による選挙で王が選ばれることになる。
 ジグムント2世が死去すると、次の王をだれにするかを決めるため、選挙議会が開かれた。
 選挙では国内からは有力候補はなく、代わってハプスブルク大公・・・モスクワ大公、スウェーデン国王、アンジュー公・・・らが候補に挙がった。
 結果、フランスのアンリ・ド・ヴァロワが選出され、ヘンリク・ヴァレジとして即位した(在位1573~74)。
 戴冠に先立ち、いわゆる「ヘンリク条項」の調印が行われた。
 王は自分の子孫に王位を渡してはならないこと、選挙の自由を損ねてはならないこと、議会の同意なしに国の問題を決めたり、シュラフタの特権を制限しないことなどを約束した。
 ヘンリク・ヴァレッジ以降に選出された王はこの条項に調印することを求められた。
 ヘンリク自身はポーランド王に即位したものの、5か月の地には兄のシャルル9世が逝去したとの報を受け、夜陰に乗じてポーランドを去り、フランスの国王アンリ3世<(コラム#6012、8668)>となった。」(18~19、21)

⇒まさに、ここが、ポーランド史の分水嶺となった、というのが、かねてからの私の認識なのですが、渡辺は、「国内からは有力候補」がなかったとされた事情の説明を省いているため、隔靴掻痒の感があります。
 そもそも、ジグムント2世の同母妹のアンナが、ヴァレジの次の、ポーランド・リトアニア共和国の国王(女王)になっている(ウィキペディア上掲)のですから・・。(太田)

(続く)