太田述正コラム#9507(2017.12.7)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その7)>(2018.3.23公開)

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[アンナが即国王に即位できなかった事情]

 表記の一端をうかがわせる、(アンナの夫となったステファン・バトリ、及び、トランシルヴァニア公国、の)両邦語ウィキペディアの記述を紹介しておく。
 (なお、宗教的寛容は、欧州において、オスマン帝国の影響で始まった(直接の典拠省略)ことも分かろうというものだ。この頃までは、相対的に、イスラム世界は文明の世界、欧州・・イギリスは含まれず!・・は野蛮の世界、であったわけだ。)↓
 
 「1572年、・・・ジグムント2世・・・が後継者を残さずに死去し、王位が空位となった。1573年、先王の妹で唯一の王位継承権者であったアンナは、セイム(共和国議会)に働きかけて、フランス王子アンリ(ヘンリク・ヴァレジ)を新しい国王に選出させた。アンリは自らの王位を正統化するためアンナと結婚する必要があったが、アンリは戴冠式から1年も経たないうちにポーランドから逃亡してフランス王位を継承した(アンリ3世)。
 1575年12月12日、およそ1年半の空位期のあと、セイムは教皇代理の説得に従って皇帝マクシミリアン2世を国王に選出した。しかし、その3日後の12月15日に・・・シュラフタ・・・は反乱を起こし、マクシミリアン選出を主導したセナト(共和国元老院)を脅迫し、「ピャストの王」、つまりポーランド人の王を選ぶよう要求した。激しい議論が交わされた結果、アンナをポーランド王として選出した上で、バートリ・イシュトヴァーン<(後出)と彼女を結婚させることが決まった。この時、リトアニア代議員はセイムに出席しておらず、国王選出に関わることが出来なかった。バートリ・イシュトヴァーンを候補者として最も支持していたのはプロテスタント<等>・・・だった。彼らはハプスブルク家出身の君主がポーランドに対抗宗教改革を持ち込んでくるのを恐れており、宗教的自由が保障されていたトランシルヴァニアの統治者バートリ・イシュトヴァーンを好ましく思っていた。
 アンナは1575年12月13日に・・・ポーランド王およびリトアニア大公に選ばれ、1576年5月1日、ステファン・バートリ(バートリ・イシュトヴァーン)はアンナと結婚して妻と同様の地位を得た。同年に兄のバートリ・クリシュトーフがトランシルヴァニア公に選ばれた・・・。
 この国王選出はルブリン合同の取り決めを無視したものであり、マクシミリアン2世を国王に選出する際にはリトアニアの代議員が出席しないままで事が進められた。このためリトアニアとの交渉が行われ、共和国におけるリトアニアの封建的諸権利が完全に保障されて、ステファンは正式にリトアニア大公<等>として<も>認められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)(☆)
 「トランシルヴァニア<では、>・・・1568年には「トゥルダの勅令」によって信仰表明の自由が公式に保障された。これはキリスト教<欧州>世界で最初に信教の自由を保障した法令だったが、信仰の自由を認められたのはカトリック、ルター派、カルヴァン主義、ユニテリアン主義だけであり、東方正教の信仰は明白に禁じられていた。・・・
 [1529年から34年まで、オスマン帝国のトランシルヴァニアの総督(ヴォイヴォド)職に、イシュトヴァーンの父親が就いていたところ、その]バートリ家が・・・[イシュトヴァーンの手によって、]1571年に・・・<トランシルヴァニアの>権力を掌握し、オスマン帝国配下の公<国となったばかりだった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%85%AC%E5%9B%BD
 (及び☆([]内))
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 「ポーランド史上、女性で国王となった人物が二人いる。
 一人は前述のヤドヴィガ・・・で、もう一人はジグムント2世の妹のアンナ<(注16)>(在位1575)である。

 (注16)アンナ・ヤギェロンカ(Anna Jagiellonka。1523~96年。国王:1575~86/96年)。「アンナはフランス王シャルル9世の弟アンリ(のちのアンリ3世、ポーランド名ヘンリク・ヴァレジ)を夫に迎えたい意向を示し、その影響もあってセイム(議会)は1573年にアンリを新国王に選んだ。しかしアンナと28歳年下のアンリとの結婚交渉は難航し、1574年6月にアンリがフランス王位を継承するためにポーランドから逃亡したことで、この縁談は完全に失敗に終わった。・・・
 <その後、>14世紀のヤドウィガ女王の例を踏襲し、「女王」・・・ではなく、男性君主を指す「国王」・・・として即位し、その上でステファン・バートリがヤドヴィガの夫ヴワディスワフ2世と同じく「妻の権利によって」主権者となり、ポーランド王に推戴された。王朝の血統的な正統性はあくまでアンナにあったが、彼女は夫の共同統治者の身分に置かれており、国政に積極的に参与することはなかった。・・・
 妹・・・の長男であるスウェーデン王太子シギスムントを引き取り、夫ステファンが死去するとこの甥をジグムント3世<(後出)>としてポーランド王に即位させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A5%B3%E7%8E%8B)

 アンナはヘンリク・ヴァレジと結婚するはずだったのだが、そうはなっていない。
 アンナの夫になったのはトランシルヴァニア公バートリ・イシュトヴァーン(ポーランド名はステファン・バトリ)<(注)>である。

 (注17)ステファン・バトルィまたはバートリ・イシュトヴァーン(Stefan Batory。1533~86年。国王:1575~86年)。「多くの歴史家に最も優れた選挙王と評価されている。」(☆)

⇒ミスプリでないとすれば、渡辺は、アンナは即位後、その年に結婚した時点で早くも退位しているとみなしていることになりますが、こんなところに、何の注釈もつけないで実質論を持ち込むのはいかがなものかと思います。(太田)

 パトリはポーランド王として即位した(在位1576~86)。・・・
 パトリののち、ジグムント3世ヴァザ<(注18)>が玉座についた(在位1587~1632)。・・・

 (注18)Zygmunt III(1566~1632年。ポーランド王:1587~1632年、スウェーデン王:1592~99年)。「ポーランド王に選ばれたのは、母親を通じてヤギェウォ朝の血を引いていたのと、リヴォニア戦争でスウェーデンと同盟を結んでいたからであった。両国が共闘してバルト地域を保有し、モスクワ大公国(ロシア・ツァーリ国)のバルト海進出を阻むための政略的な結果であった。
 ジグムント3世は・・・幼くしてポーランド王国かつポーランド・リトアニア共和国の首都クラクフへ預けられ、カトリック改革の主導的存在であったイエズス会の手で教育を受け、本国スウェーデン及び<同王家たる>ヴァーサ家がルター派プロテスタント国家であるにもかかわらず熱烈なカトリック教徒となった。このため、1592年、父ヨハン3世が死去すると、ジグムント3世はポーランドを出国せずにスウェーデン王位を継承し、叔父カール(後のスウェーデン王カール9世)が摂政としてスウェーデンを治めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%B0%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%883%E4%B8%96

 ジグムント3世が絶対君主制を望んだこと、イエズス会士を重用し、カトリック政策を強化したこと・・・などから、・・・内戦状態に陥った。
 結果は反王党派の敗北であった。
 これ以降、シュラフタの力は弱まり、逆にマグナト・・・が勢力を伸ばした。
 共和国が「シュラフタ民主政」から「マグナト寡頭政」へと変貌していく転機となった。
 ジグムント3世<はまた、>・・・1596年、<クラクフから>ワルシャワへの遷都を決めた・・・(実際の遷都は1611年)。」(23~25)

(続く)