太田述正コラム#9529(2017.12.18)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その14)>(2018.4.3公開)

 「1797年、ナポレオン軍がイタリアで戦闘に臨んだ際、オーストリア軍にはガリツィア(ポーランド南東部からウクライナ北西部を指す地域名)で徴募されたポーランド人兵士が多数含まれていた。
 このポーランド人がナポレオン軍に投降すると、<当時の仏>総裁政府によって・・・ポーランド軍団<が>編制され>た、・・・
 そこにいたユゼフ・ヴィビツキ中尉・・・は「イタリアのポーランド軍団の歌」を作詞した。
 歌詞は、作曲者不明の民謡のメロディーに乗せて歌われ<た。>・・・
 1827年以降、「ドンブロフスキ<(注34)>のマズルカ」としてポーランド国歌<(注35)>になっている。

 (注34)ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ(Jan Henryk Dembowski)。「ポーランド<で>・・・シュラフタ階級の家庭に生まれ、・・・ポーランド=リトアニア=ザクセン三国連合時代のザクセンで育ち、ザクセン軍での勤務を数年こなした。1791年にポーランドが四年議会にて、全てのポーランド人に対してポーランド軍への再召集を呼びかけた際、ドンブロフスキはポーランドへ帰国した。・・・<そして、>ポニャトフスキの下で・・・1792年のロシアに対する戦闘に加わった。そして、コシチュシュコによる反乱が起こった1794年に・・・はこの反乱軍に積極的に加わ<っ>・・・て戦<い、>・・・最高指揮官であるコシチュシュコにより・・・将軍の地位を彼により与えられた。・・・
 ドンブロフスキは・・・ナポレオン戦争中のイタリア・ポーランド軍団・・・の編成を1796年、ナポレオン・・・によりパリへ召喚された時より始め<たが、その途中の1795年に>・・・ポーランドが<欧州>の地図上から姿を消した。 しかしポーランド人部隊の編成はフランスによるポーランド独立運動の支援によって、ポーランド問題を再浮上させるきっかけをもたらした・・・<。しかし、その後、ポーランド人部隊の一部はハイチに送られて壊滅し、残りは解散させられることになる。>
 <その後、>彼は1806年にポーランド軍団を再編するため再度ナポレオンに呼び出され・・・ポーランド<人部隊が>再度編成された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD
 (注35)https://www.youtube.com/watch?v=KQTq07gihqg ←曲
 ところで、「ポーランド・リトアニア共和国の基本理念である多民族共存(多文化主義)の「コモンウェルス」の概念と対立すること、また他のスラヴ諸国と異なり東方正教会よりもカトリックが優勢であることなどから、いかなる形の汎スラブ主義ともポーランドは距離を置い<てい>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B4%E4%B8%BB%E7%BE%A9
というのに、「『スラヴ人よ』は、スラヴ人への賛歌であり、1834年に汎スラヴ運動の歌として『スロバキア人よ』(Hej, Slováci) ・・・ の題の下、作詞された。その後・・・ユーゴスラビアの国歌<(Hej, Sloveni)>、セルビア・モンテネグロの国歌となった。また、スロバキア人の・・・非公式な<国>歌でもある。楽曲はポーランドの国歌でもあるドンブロフスキのマズルカに基づくが、よりテンポが遅く、強くされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B4%E4%BA%BA%E3%82%88
https://www.youtube.com/watch?v=i-TD-zzBw6g ←曲

⇒反汎スラヴ主義のポーランドの「国歌」の曲が歌詞を変えて汎スラヴ主義の運動歌に採用されるとは、歴史は面白いですね。(太田)

 歌詞(一番)は次のとおりである。
 
 ポーランドは未だ滅びず
 我らが生きているかぎり
 よそ者が奪ったものを
 剣で取り戻そう
 進め、進め、ドンブロフスキ
 イタリアの地からポーランドへ
 汝の指揮下に
 同胞と一つにならん

⇒1791年の5月3日憲法が、ザクセンの王家をポーランド王家に指名したのは、ゲルマン(ドイツ)人の軍事能力の抑止力性への期待であったのでは的な私見を記したところですが、ザクセンにおいて軍人教育を受けたドンブロフスキがポーランド諸反乱で活躍したことは、この私見を補強するものです。
 それにしても、フランスの国歌にしても、このポーランドの「国歌」・・現在は国歌・・にしても、戦争賛美的な「野蛮な」歌詞であり、私、こう見えても縄文人の端くれですから、ちょっと引いてしまいます。(太田)

 ・・・1801年、<この>ポーランド軍団は三つに分けられ、二つはイタリアに残り、一つは・・・翌02年、ナポレオンによりサンドマング島(ハイチ)に送られ、そこで蜂起の鎮圧に当たった。・・・
 残りの二つの部隊はフランス軍とともにあらゆる戦線で戦った。」(54~55)

⇒ポーランド人部隊の小史に、渡辺と邦語ウィキペディアとでは食い違いがありますが、後者は、ポーランド反乱に係る2つの英語ウィキペディアに拠っており、この食い違いについて、渡辺に説明して欲しかったところです。(太田)

(続く)