太田述正コラム#9531(2017.12.19)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その15)>(2018.4.4公開)

 「1807年のティルジットの和約の結果、プロイセン領土の一部から、フランスの支配下に置かれるワルシャワ公国・・・が生まれた。
 公国はナポレオン法典に倣った憲法を持った。
 <更に、>1809年の対オーストリア戦の結果、オーストリアからもかつての領土・・・を奪回した。・・・
 <しかし、>ナポレオン失脚後の1814~15年に開かれたウィーン会議の結果、ワルシャワ公国は消滅し、代わってその領土の一部から、ロシア皇帝・・・を統治者とするポーランド王国が生まれた。
 プロイセンは旧ワルシャワ公国の西部地域を得、これをポズナン大公国とした。
 オーストリア<も一部を得た。>・・・
 ロシアでは専制政治が行われていたが、ポーランド王国では一定の自治権が認められていた。
 そうしたロシアの対ポーランド政策が変わるのは、1825年にロシアで発したデカブリストの乱<(コラム#8160、8166)>だった。
 検挙された参加者を取り調べると、ポーランド人との関係も明るみ出た<からだ>。・・・
 1830年、パリで7月革命が起こると、<今度は、>その影響を受けた・・・
 1831年1月25日、<ポーランド>議会<(セイム)>は満場一致でニコライ1世の退位と王国の独立を宣言した。
 ・・・<これは、>ウィーン条約の内容に明らかに反する決定であった。・・・
 <そして、反露蜂起をしたのだが、>1831年5月26日のオストロウェンカ<(注36)>戦で敗北を喫し・・・9月7日、ワルシャワがロシア軍に制圧され、11月蜂起<(注37)>は終わった。

 (注36)「首都のワルシャワから120 km 北東に位置する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%AB
 (注37)11月蜂起の背景は以下の通り。
 「<ロシア皇帝>アレクサンドル1世は正式にポーランド王として戴冠<せず>・・・<ポーランド>憲法に違反して弟のコンスタンチン・パヴロヴィチ大公を総督に任命した。・・・<更に、>1819年、・・・出版の自由を取り上げ、検閲を導入した。・・・<また、>ロシア秘密警察は、ポーランド地下組織への迫害を開始し、1821年には勅令によってフリーメイソンが禁止された。(チャルトリスキ家の人々をはじめとするポーランドのフリーメイソンは・・・「1791年憲法」(5月3日憲法)を制定した政治運動の中心的存在で、ポーランド分割後もポーランド国内の自治拡大および民主化のための運動を主導していた)。1825年、セイムの議事進行は非公開と<され>た。・・・<そして、>大公はポーランド人の社会組織や愛国者組織・・・の自由主義的な反体制運動を迫害し、重要な行政官職をポーランド人から奪ってロシア人に与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%88%E8%9C%82%E8%B5%B7
 11月蜂起の評価は以下の通り。
 「時期が悪すぎた<のであって、>・・・1828年の露土戦争中に蜂起を起こしていれば、ロシアがポーランドにこれほど大規模な軍隊を投入することは出来ず、展開は違っていただろうという意見もある。・・・<とはいえ、>2国の間には資力に大差があったが、ポーランドが常に好機をとらえて行動し、巧妙に軍事作戦を展開した<とは言える。>・・・ロシアは18万のよく訓練された兵隊を送り込んだ一方で、対峙するポーランドは兵力7万人で、その30%が開戦時に雇われたばかりの新兵だった、にもかかわらずである。」(上掲)

⇒11月蜂起に関する邦語ウィキペディア(上掲)は、2つのポーランド語文献に拠っているところ、ロシアのポーランド抑圧政策は最初からであったとしており、渡辺はデカブリストの乱以降としているので、ここにも食い違いがあって、困ってしまいます。
 とまれ、上掲典拠における、「ポーランドでは、蜂起したポーランド人の無政府状態と団結力の無さが・・・敗北の原因だったという見方もある。反乱が本格的に始まったとき、人々は意見の分裂が敗北を招くのを恐れ、何の批判もなく指導者に専制的権力を与えた。不運にも、過去の功績から期待されて指導者に選ばれた人物は、期待された指導力を発揮出来なかった。さらに、彼ら指導者の多くが、時期の悪さから蜂起の成功を信じていなかった。」という総括は秀逸だと思います。
 この「ポーランド人の無政府状態と団結力の無さ」の拠って来るところは、既にお分かりのはずです。
 ポーランドの中世は、少なくとも19世紀前半に至っても、ポーランドを規定していたのです。
 それが、現在のポーランドも規定している、としても不思議はない、と思いませんか?(太田)

 <ロシアは>激しい報復政策に打って出た。
 蜂起首謀者は処刑されたり、シベリアに流刑となった。
 領地や財産の没収、左遷、大学の閉鎖などが行われた。
 他の分割列強の対ポーランド政策も大同小異だった。
 こうした迫害を恐れて、亡命する者が多数出た。・・・
 亡命者の数は1万人を超え、「大亡命」<(注38)>の名で呼ばれる。」(56~60)

 (注38)「セイムも廃止<され、>シュラフタは政治的権力をほとんど失い、多くがシベリアへ流刑になるか、<米国>へ大挙して亡命した。この時代の<米国>亡命をとくに「大亡命」と呼ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%BF

(続く)