太田述正コラム#9535(2017.12.21)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その17)>(2018.4.6公開)

 「1919年、・・・第一次世界大戦が終結した。
 しかし、ポーランドの境界線については曖昧な点が多かった。・・・
 ポーランドの一部地域の境界線は、住民投票によって決することになった。・・・
 <ソ連とは戦争になり、それは、>1920年から翌21年まで続いた。・・・
 ピウスツキは、ポーランド・リトアニア・ベラルーシ・ウクライナから成る連邦を構成し、ソヴィエト・ロシアの動きを抑えたい考えであった<のだ>。<(注41)>・・・

 (注41)「ピウスツキの政敵でポーランド民族主義者であったドモフスキはポーランド民族の労働者階級の出身であったが、苦学して最高学府のワルシャワ大学を優秀な成績で卒業し生物学者となった。学生時代からポーランド独立運動に関わ<ったが、>・・・彼は・・・「欧州の全ての国が民族主義の理念で国民国家の建設をしている現代ではピウスツキの多民族国家構想はもはや安定的な国家形態ではなく、ポーランド民族が明らかに圧倒的多数で占められる地域のみに限定して構成されたよりコンパクトな領土のなかでポーランド人が排他的に運営するいわゆるポーランド民族中心主義の国家建設を目指したほうが堅実だ」「国民の誰もが民族意識の希薄だった旧ポーランド・リトアニア共和国当時ならいざしらずいまの時代はウクライナ人などといった排他的な思想を持つ異民族を自国に多く抱え込むのは民族同士の利権争いの種になり非常に危険である」「ポーランド人はもはや旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を望むべきではない」「新生ポーランドは民族主義国家としてポーランド民族が独占的に運営し国内の少数民族にはポーランドへの同化を強制しポーランド化すべきだ」と主張してピウスツキと対立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E6%88%A6%E4%BA%89

⇒ピウスツキとドモフスキの考え方は、(どちらも暴力的であるところの、ドイツ(ゲルマン)人の好戦性、と、ロシアのモンゴルの軛症候群に基づく膨張主義、の影響があったと想像されるところ、)二人とも暴力的(非人間主義的)であって評価できませんが、より、欧州(ロシアを含む)に悪影響を及ぼしたのは、膨張主義的な前者の考え方・・シュラフタ特有の発想・・である、と言わざるをえません。
 西スラヴのポーランドが南スラヴのセルビアに及ぼした悪しき影響が、(既に、「国歌」の「継受」のところで示唆したつもりですが、)これ↓です。
 「1844年には<、当時、オスマン帝国内の自治地域であったセルビア(公国)の>外務大臣のイリア・ガラシャニンによって「ナチェルターニェ」(「覚書」)と呼ばれる秘密文書が作成された。「ナチェルターニェ」で示された方針とは、近い将来にオスマン帝国が崩壊すると仮定した上で、その際にはロシアとオーストリアの介入を防ぎつつ、中世のセルビア王国の領域に基づいたセルビア人の一大独立国家を、セルビア公国が自らの手で建設しようとするものである。「ナチェルターニェ」はチャルトリスキ<(←シュラフタ)>派の亡命ポーランド人の支援を受けて作成されたといわれ、以後のセルビア外交の指針となった。この「ナチェルターニェ」で示されている政治思想は、当時まだオスマン帝国の支配下にあったボスニアやヘルツェゴビナ、オーストリア帝国の支配下にあったヴォイヴォディナなどに存在するセルビア人コミュニティをセルビアの領域に併合しようというものであり、このような政治思想を「大セルビア主義」という。この思想はやがてカトリックを信仰するクロアチア人やムスリムであるボシュニャクといった、宗教は異なるものの言語をほぼ同じくする全ての南スラブ人コミュニティの統合を目指す思想へと発展していく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A2%E5%85%AC%E5%9B%BD_(%E8%BF%91%E4%BB%A3)
 セルビアは、1878年にオスマン帝国から完全独立を果たします(上掲)が、このセルビアが、第一次世界大戦勃発のきっかけを作ったこと(典拠省略)はご承知の通りです。
 そして、その結果として、ポーランドが独立を果たすわけですが、それはピウスツキ的ポーランドであったところ、それが、更に、ドイツとロシア(ソ連)に第二次世界大戦を引き起こさせる大きな契機の一つを作った(典拠省略)ことになるわけです。
 まさに、因果は巡る、といった感があります。(太田)

 <ポーランド軍が、20年>8月、ワルシャワ近郊でソヴィエト軍の進軍を食い止めた・・・いわゆる「ヴィスワの奇跡」<は有名。>・・・
 <この>ポーランド・ソヴィエト・・・戦争<(注42)>は1921年3月、リガでの調印をもって終わった(リガ条約)。

 (注42)「第一次世界大戦後の1919年2月から1921年3月にかけてウクライナ、ベラルーシ西部、ポーランド東部を中心に行われたポーランドとボリシェヴィキ政府のあいだの戦争。ロシア革命に対する干渉戦争の一環ともとらえられる。・・・
 1920年当初、ポーランド軍はキエフを占領するなど大きく進撃したが、その後ポーランド軍は政治的な理由によりフランスの軍事顧問団による作戦を採用すると騎兵の機動力を生かせなくなりソ連を攻めあぐね、1920年4月以降は赤軍が反撃を開始、6月にはワルシャワを包囲した。しかし、・・・ピウスツキが策定した騎兵の大群による長距離高速度行軍(フランスの軍事顧問団は反対していた)を用いた乾坤一擲の大機動作戦が大成功し、これによりミハイル・トゥハチェフスキー率いる赤軍はほぼ全軍が包囲殲滅の危険に晒されて崩壊、敗走を開始した。これは後に「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれる。この大逆転劇により8月末から赤軍は撤退、ポーランド軍はソ連軍に対する猛烈な追撃に転じた。赤軍は東方より体勢を立て直そうとするが、ポーランド軍機動部隊はこれらの試みをも粉砕した。進撃を続けるポーランドは支配圏をミンスク近辺まで到達させたものの、財政難の危険により、ソ連の提案で10月に停戦に応じることとなった。」(上掲)

 <その結果、>ポーランドは約39万平方キロメートルの領土と2700万人の人口を有する国家となった。
 しかしポーランド人人口は7割弱で、他民族(主にウクライナ人、ベラルーシ人、ユダヤ人、ドイツ人)が3割以上を占めた。」(76~80)

(続く)