太田述正コラム#9553(2017.12.30)
<映画評論51:ユダヤ人を救った動物園 ~アントニーナが愛した命~(その6)>(2018.4.15公開)
「ジャビンスキ夫妻は、やがて、ヤド・ヴァシェム(Yad V’shem)<(注8)>によって、彼らの道義的な諸行為とドイツに対する反抗、を認められた。
(注8)「ホロコースト・・・の犠牲者達を追悼するためのイスラエルの国立記念館である。・・・エルサレムのヘルツルの丘にある。・・・「ヤド・ヴァシェム」は「場所、名前」という意味で、ヘブライ聖書の「イェシャアヤー」(イザヤ)の56章5節「私(神)は彼らのために、私の城と城壁の中に、決して消えることのない場所(Yad)と名前(Vashem)を刻む。」 から取られている。日本語では「ホロコースト記念館」「ホロコースト博物館」などと訳すこともある。・・・
危険を冒してドイツの迫害からユダヤ人を守った非ユダヤ人は、ヤド・ヴァシェムより「諸国民の中の正義の人[(Righteous among the Nations)]」としてその名誉を顕彰される。・・・1960年から「諸国民の中の正義の人」の称号の授与が始まり、現在までに2万2000人の非ユダヤ人が[・・・ユダヤ人を救った人に協力した家族も含めて・・・]「諸国民の中の正義の人」として顕彰を受けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E3%81%AE%E4%BA%BA ([]内)
「諸国民の中の正義の人」の数は、ポーランドが1位で6,620人にのぼる。日本は杉原千畝1人。(但し、日本は政府自身が事実上ユダヤ人の救出に寄与したことは忘れてはならない(コラム#省略。太田))「ナチス・ドイツ占領下のポーランドでは、もしもユダヤ人をかくまっているのを見つかれば庇護者のみならず家族全員が死刑となった。これはナチス・ドイツによる占領法令のうち、他のヨーロッパの国々では全く見られない過酷なものであった。」(上掲)
ユダヤ人を匿った廉で約30,000人のポーランド人が処刑された。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Holocaust_in_Poland#Poles_and_the_Jews
ジャビンスキ夫妻は1965年に「諸国民の中の正義の人」とされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD
夫妻は、彼らの動物園を再建し、ワルシャワ動物園は、今日に至るまで、開園を続けている。」(B)
(2)一般のポーランド人達は概ね善
「ヤンによって救出され、アントニーナによってアーリア人を装わされていた二人の女性は、1943年に逮捕され、ワルシャワの路傍で処刑された<が、その場面がこの映画には出てくる>。」(B)
⇒アントニーナが彼女達に金髪の鬘を被らせたのは、ドイツ人(アーリア人)を装わせたのだというに、私としたことが、気が付きませんでした。(太田)
「私自身は、この映画は若干のポーランド人達の中における反ユダヤ人的な諸態度<(注9)>を示唆する試みを行っていると思う。
(注9)「ポーランド<の>・・・ナチ協力者の数は例えばフランスよりも明らかに少なかった。・・・<また、>絶滅収容所で補助的な勤務をしたうちでドイツ人でない者の大半はポーランド人でなく、ウクライナ人・・・かバルト三国の人々であった。・・・
<但し、>反ユダヤ主義は特に<先の大戦後、ソ連領となった>東部地域で根強かった。そこは1939年から1941年までの間ソ連が占領していた。この東部地域では、ユダヤ人はソ連に協力していたとして地元住民に非難されており、ソ連占領下でユダヤ人の共産主義者はカトリック教徒のポーランド人を抑圧したり国外追放したりするのに主導的役割を果たしていたと言われていた。その結果として、復讐行為が起こり、時には無実の者が標的にされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88
例えば、能天気な数人のワルシャワ市民達が、ワルシャワ・ゲットーの門の前で自分達の諸写真を撮っている場面を含む、あたかも絵画的な描写のような短い諸場面が出てくる。
これは、当時のワルシャワの非ユダヤ人達の一部における<ユダヤ人達の悲惨な境遇への>無頓着さを仄めかすのが目的なのだろう。
⇒「アーリア人を装わされていた二人の女性」の正体がばれたのは(ポーランド人の)密告による(映画)ところ、この評論子は、むしろそちらの方を例示すべきでした。(太田)
この短い場面は、原作者の本では取り上げられていないが、恐らくは、このゲットーが<ゲットー蜂起後に>取り壊されている時にその外に出現したところの、悪名高い回転木馬・・これは原作でも言及されている・・に相当するものなのだろう。」(γ)
⇒上述の戦時中のポーランド東部の状況に加えて、ポーランド中・西部において戦争が終結した1944年から戦後の1946年にかけて、ユダヤ人達がソ連占領当局内に多数含まれていたこととも相俟って、ポーランドで非ユダヤ・ポーランド人達によって、相当の数・・1500~2000人と見積もる者もいる・・のユダヤ人達が殺されている
https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-Jewish_violence_in_Poland,_1944%E2%80%9346
ことからしても、ポーランド人達も、当時、少なくとも、(ドイツ人を除く)中・西欧の人々の平均並み以上には反ユダヤ的であったと、私自身は見ています。
では、当時のドイツ人の反ユダヤ性が突出していたのかと言えば、必ずしもそういうことはなかったのでないでしょうか。
(戦中のポーランド東部や戦後のポーランド中・西部においてのように、)自分達の不幸に、現実に、ユダヤ人達が、というか、ユダヤ人達も、関与していると感じた場合はポーランド人達の反ユダヤ性が亢進したのですから、第一次世界大戦の戦中・戦後にそれを感じたドイツ人達の反ユダヤ性が亢進した(コラム#省略)のは、それが、どちらもいくら非合理的な反応(注10)であったとしても、ある意味、自然なことだったと言うほかありますまい。
(注10)ドイツ人達やポーランド人達、ひいては欧州の人々、のかかる非合理性の背後にあるのは、欧州文明の、階級制とキリスト教に由来する、差別と不寛容の文明だ。(コラム#省略)
私に言わせれば、自然ではないのは、ドイツ人達・・ヒットラーではない(コラム#省略)ことに注意・・が、このユダヤ人「問題」をホロコーストの形で「超合理的」に解決しようとしたこと「だけ」なのです。(太田)
(続く)