太田述正コラム#0544(2004.11.25)
<プロト欧州文明について(その1)>
1 始めに
これまで、「プロト欧州文明」(私の造語)について幾度となく言及してきました(コラム#61、65、231、457、503)。プロト欧州文明とは、要するに欧州の中世文明のことなのですが、一体それがどんな文明であったのか、振り返ってみることにしましょう。
まず、プロト欧州文明において聖俗両権力のそれぞれ頂点に位置していたローマ法王と神聖ローマ皇帝の中から最大の悪人を一人ずつご紹介した上で、これら聖俗両権力によって苛まれ、翻弄されていた民衆の姿をかいま見、最後にこの文明のイデオロギーに迫ることにしたいと思います。
そのねらいは、プロト欧州文明について、それが「欧州文明」の前駆文明たるゆえんを再確認するとともに、できうればこの文明を手がかりにして、アラブ世界や米国の実相に迫ることです。
果たしてうまくいきますかどうか。
2 ローマ法王
法王の中の最大の悪人と言えば、アレクサンデル6世(Alexander??。在位1492??1503年。本名Rodrigo Borgia。1431??1503年)と相場は決まっています。
彼は伯父のハリストス(Callixtus)法王とともに、二人だけしかいないスペイン出身の法王の一人です。
彼はハリストスによって引き立てられて25歳で枢機卿になり、その後法王官房の官僚として頭角を現します。
その悪人ぶりは次のとおりです。
そもそも彼が法王になれたのは、インノケンティウス8世(Innocent VIII)の死に伴って行われた法王選挙(コンクラーベ)で同僚枢機卿達を大々的に買収したからだと言われています。
また、カトリックの聖職者は独身でなければならないというのに、彼は枢機卿になる前に単複不詳の情婦相手に少なくとも二人の子供をつくり、枢機卿になってからは、ある情婦を相手にチェーザレ(Cesare)とルクレティア(Lucrezia)を含む四人の子供をつくり、その後ももう一人の情婦との間に更に二??三人の子供をつくっています。
しかも彼はこれを隠すまいか、凶暴な息子のチェーザレを18歳の時に枢機卿に任命して取り立てたり、尻軽の娘のルクレティアには三回も政略結婚をさせましたし、ルクレティアには、二回目と三回目の結婚の間、法王「出張」時の代理役をやらせたりしています(注1)。
(注1)前任者のインノケンティウス8世は、子供がいることを公にした最初の法王だった。
アレクサンデルは、ルクレティアの最初の夫には不能の烙印を押して離婚させ、二度目の夫はチェーザレに毒殺させて死別させたとされていますが、ルクレティアは唯々諾々と父親の意のままに従った稀代の悪女とされています。
そのルクレティアが足下にもよれないワルが兄のチェーザレです。
チェーザレがアレクサンデルの意向を受けて行った悪行として有名なのは次のエピソードです。
「ある日、ヴァチカンの囚人達が手かせをつけられたまま聖ペテロ広場に引き出されてきた。
宮殿のバルコニーには法王とルクレティアがいた。囚人達の中には自分たちが釈放されるのかと期待した者もいた。同じフロアの別の窓にはチェーザレの姿も見えた。そして突然チェーザレは銃で次々に囚人達を撃ち始め、逃げまどう囚人達は結局全員が彼によって射殺された。」
バチカン宮殿は、酒池肉林の場と化します。
「ある日、ヴァチカンで法王ご臨席の乱交パーティーが行われた。
50人の裸体の売春婦達が、アレクサンデルの播いた栗の実を膝の間にかき集めて床に腰を下ろした。そしてやはり裸体になった廷臣達が競って栗の実を回収した。一番沢山回収した者はご褒美として、選り取り見取りの売春婦多数とセックスに耽った。」
フィレンツェで神政共和制を樹立した怪僧サヴォナローラ(Girolamo Savonarola。1452??98年。http://www.historyguide.org/intellect/savonarola.html(11月25日アクセス))を逮捕し、拷問の上死刑に処したのもアレクサンデルです。
アレクサンデルの死は突然やってきました。
息子チェーザレとともにある枢機卿の別荘で毒を盛られ、チェーザレは一命を取り留めたものの、法王は数日後に帰らぬ人になってしまったのです。噂によれば、二人はこの枢機卿の毒殺を図ったものの、気付いた枢機卿によって食べ物を密かに取り替えられたというのです。
チェーザレの部下達は、まだ法王が亡くならないうちから、ヴァチカンからぶんどれる限りの財宝を運び出し、法王が亡くなると法王の部屋の金品もことごとく奪い取ったと言われています。
しかしこんな法王でも、その業績は、現在の地球儀の上にその痕跡をはっきりと残しています。
1493年に全世界をスペインとポルトガルの勢力圏に分けたことです。
(もっともこの裁定は、出身のスペインに依怙贔屓しすぎていたため、翌1494年にポルトガルにやや有利に修正されたトルデシリャス条約が両国間で締結されている(http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/8-daikoukai3.html。11月25日アクセス)。)
(以上、特に断っていない限り、http://www.crimelibrary.com/borgia/borgiamain.htm及びhttp://www.crimelibrary.com/serial_killers/history/borgias/2.html?sect=6(いずれも11月24日アクセス)による。ただし、乱交パーティーについてはhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A43997-2004Nov11.html(11月20日アクセス)及びhttp://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,6121,1333651,00.html(10月23日アクセス)による。)
(続く)
<読者>
面白く拝見しました。蛇足ですが、塩野七生の「神の代理人」「チェーザレボルジアあるいは優雅なる冷酷」は、ご存知ですよね。そこにも、ちょっと書かれていましたが、アレクサンドル(とチェーザレ父子)の評価については、(巷の俗説はともかく)最近のヨーロッパの史学会(?)では、高く評価する人が多いという話を(オクスフォード大学でウォードンから)聞いたことがあります。
ところで、君主論は、(実質的には)チェーザレに奉げられています。レオナルドが希望を託したのもチェーザレです。
私のロドリーゴ・チェーザレ父子の理解は、フェデリーコ??の次のイタリアの希望ではなかったか、というものです。早すぎたのでしょうね。上に立つものは、結果責任が総てだとは思いますが、企図(ヴィジョン)がその次に来るのではないでしょうか?女などの問題は、その次だと(現代では、そうではないと思いますが)思うのです。次回を楽しみにしています。
<太田>
>アレクサンドル(とチェーザレ父子)の評価については、(巷の俗説はともかく)最近のヨーロッパの史学会(?)では、高く評価する人が多い
承知していますが、巷の俗説=民衆の視点、からあえてこの父子を描いた次第です。
>君主論は、(実質的には)チェーザレに奉げられています。
これも承知しております。
ちなみに、私の引用したhttp://www.crimelibrary.com/serial_killers/history/borgias/3.html?sect=6も民衆の視点から書かれているようで、
Strangely, Cesare’s lasting legacy is that he served as the model for Niccolo Machiavelli’s The Prince, the leader who promotes himself solely through the strength of his own will.
と記しています。冒頭の’Strangely’にその気持ちが込められていますね。