太田述正コラム#0547(2004.11.28)
<プロト欧州文明について(その4)>

 フリードリッヒは、かつてビザンツ帝国に属し、つい前までイスラム文明が栄え、多数のイスラム教徒が引き続き住んでいたシチリア島と、つい前までビザンツ帝国に属し多数のギリシャ人が引き続き住んでいた南イタリアの双方を領土としていた両シチリア王国の首都パレルモ(Palermo。シシリー島の都市)で、伸び伸びと育ちます。
回りにはイスラム教徒やユダヤ人、更には海賊や乞食や博徒が沢山いました。そして彼は両シチリア王としてそのキャリアをスタートさせます。つまり、フリードリッヒは純粋な地中海人、かつ南イタリア人(注8)、そして何よりも自由人として人となるのです。

(注8)フリードリッヒ2世は、パレルモで、母方の祖父である両シチリア王ロジャー2世(Roger??)、父の皇帝ハインリッヒ6世、及び(ロジャー2世の娘である)母親の側らで、「イタリア人」として永遠の眠りについている。

彼が、一旦断念せざるを得なくなったドイツ王、そして皇帝に後でなれたのは、幼少時から両シチリア王国の宗主権者としてフリードリッヒを後見してきた法王サイドが、意に従うであろうと考えてフリードリッヒを引き立てたからです。後にフリードリッヒに煮え湯を飲まされることになるともつゆ知らず・・。
 彼は、法王によって神聖ローマ皇帝に任命された1220年、ローマでの戴冠式に赤い礼服(robe)を着用して臨むのですが、何とそのすそにはアラビア語で、イスラム暦による礼服制作年と皇帝就任頌辞が縫い取られていました。(その実物をウィーンの文化史博物館で見ることができます。)
 更に傑作なのは、彼がエルサレム王になった経緯です。
十字軍を実施することは、皇帝に任命された際、法王から課された条件だったのですが、彼はそれが単なる持ち出しに終わるようなことのないよう、周到な準備を行います。彼は肝腎のエルサレム等の聖地を失ってしまっていたエルサレム王国(注9)の王位継承権者である王女と(二度目の)結婚をし、自分の子孫がエルサレム王を受け継いでいく権利を確保した上で、それから4年もたった1229年に、法王のはしごをはずす形で、しかもこれに怒った法王に何度目かの破門をくらいながら、十字軍ならぬ単なるエルサレム遠征を敢行するのです。

(注9)Latin Kingdom of Jerusalem。第一次十字軍によって1099年に設けられ、1291年までの間、断続的に続いた王国であり、欧州による史上初の植民地だった。(http://www.newadvent.org/cathen/08361a.htm。11月28日アクセス)

しかも、当時パレスティナ地方を領有し、シリアとメソポタミアに敵をかかえていたところのアユーブ(Ayyubid)朝(注10)の国王(Kamil Nasser Eddin)と交渉し、エルサレム・ナザレ・ベスレヘムの「返還」を平和裏に受けることに成功し、エルサレムで宗教色抜きのエルサレム王就任式をとり行います。

(注10)1187年にエルサレム王国を一旦滅ぼした(現在のイラクの)ティクリート出身のクルド人サラディン(Saladin=Youssef Chahine EL-NASSER SALAH EDDINE)を始祖とする、エジプトを中心とするスンニ派イスラム王国(1170??1250年)(http://www.touregypt.net/hayyubid.htm。11月28日アクセス)。

さて、フリードリッヒ2世は名君であったという指摘もあります。
 多くの国王や貴族が文盲だった時代に、彼は9カ国語をあやつり、7カ国語を読むことができたと言われます。彼は学問を奨励し、ナポリに大学を創設しました。また、「国家」独占企業を廃止し、国内通行税を廃止し、輸入規制を撤廃するという「近代的」な経済政策を行いました。
 ロジャー2世によって始められた両シチリア王国の慣習法の成文化・改良作業を法典に集大成する形で完結させたのも彼です(注10)。

(注10)この法典をConstitutions of Melfi またはLiber Augustalisと呼ぶ。この法典の基本部分は、1816年まで両シチリア地方で用いられ続けた。

 決闘による裁判(trial by ordeal)を欧州で最初に禁止したのも彼です。
要するに彼は、欧州で最初に封建制を撤廃し、「近代的」な絶対王制を確立したのです。
しかも、彼がドイツをなげうってまで執拗に北部及び中部イタリアに支配権を確立しようとしたのは、「イタリア」人たるフリードリッヒが、全イタリアを領域とする国民国家(Nation State)を建設しようとしたのだ、と私には思えてなりません。
歴代の法王(中部イタリアにおける大領主でもあった)の抵抗によって果たせませんでしたが、これは英仏百年戦争終結によってようやくイギリスとフランスという国民国家が広義の欧州に成立した15世紀に先んずること300年の試みでした(注11)し、絶対王制の確立については、欧州における二番目の絶対王制を17世紀にフランスが確立するのに実に500年先んじる偉業でした。

(注11)イタリア統一は、600年後、フランスのニース出身のイタリア人ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi。1807??82年)による、両シチリア王国における反乱を支援する形での同王国征服に引き続く旧両シチリア王国領のサルディーニャ王国への献上、を契機としてようやく行われる(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BC%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3。11月28日アクセス)。

もう一つ忘れてはならないのは、フリードリッヒがシシリー島に住んでいたイスラム教徒を決して迫害しなかったことです。それどころか、彼は対岸の南イタリアへのイスラム教徒の移住を認め、そこにモスクを建てることまで許しました。あまつさえ、彼はイスラム教徒を兵士として登用してキリスト教徒の兵士と混用し、自分の親衛隊にまで加えたのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.newadvent.org/cathen/06255a.htm前掲、http://www.firstthings.com/ftissues/ft9512/articles/novak.html前掲、http://www.newadvent.org/cathen/08013a.htm前掲、及びhttp://www.newadvent.org/cathen/08361a.htm前掲による。)

 さて、一体フリードリッヒ2世は悪人・・最悪の皇帝・・なのでしょうか、それとも稀にみる名君なのでしょうか。
 断じて前者だと考え、フリードリッヒを敵視したのが、プロト欧州文明の大イデオローグ、トマス・アクィナスです。

(続く)