太田述正コラム#9579(2018.1.12)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その23)>(2018.4.28公開)
「1980年7月1日、政府が突然食肉の値上げを実施した。
これに対し、全国で抗議のストライキが発生した。
値上げの額については公式の発表はなく、平均60%とも2倍ともいわれる。・・・
グダンスクのレーニン造船所では、レフ・ワレサ<(注59)>(ポーランド語読みではヴァヴェンサ)の指揮下に8月14日、ストライキ委員会」(自主管理労組「連帯」の前身)が結成された(委員長ワレサ)。
(注59)Lech Wałęsa(1943年~)。「1967年グダニスク造船所(旧レーニン造船所)で電気技師となる。・・・
1990年の大統領選挙で当選し、次々と自由化・民営化を行っていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B5
カトリック教徒。彼の(実父死去後に再婚していた)母親と義理の父親は1973年に米国に移住している。
なお、上掲邦語ウィキペディアは「ワルシャワ大学を中退」としているが、ひどい誤りだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Lech_Wa%C5%82%C4%99sa
ストライキ委員会は、21項目から成る政治的・経済的要求を発表した。
ストライキは・・・ポーランド全域に波及した。
政府は譲歩を余儀なくされ<た。>・・・
9月17日、独立自主労働組合「連帯」が誕生した。・・・
1981年・・・2月11日、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ<(注60)>が首相に就いたが(<既に就任していた>国防相を兼任)、この背景にはソ連からの圧力があった。
(注60)ヴォイチェフ・ヴィトルト・ヤルゼルスキ(Wojciech Witold Jaruzelski。1923~2014年)。「<シュラフタ>の子として生まれる。祖父は1863年にロシア帝国支配下で起こった一月蜂起に参加し、父ヴワディスワフも1920年のポーランド・ソヴィエト戦争に参加している。ワルシャワの・・・カトリック修道会の寄宿舎で教育を受ける。・・・1939年に家族とともにリトアニアに亡命。リトアニアがソ連に併合されると、1940年にはシベリア地方に抑留され、タイガでの森林伐採にまわされた。このとき雪の強い照り返しで目を傷め、以後色付きのめがねをしてい<た>とされる。なお、父はこの抑留中に命を落としている。
・・・アンデルス率いるポーランド亡命政府軍に入隊志願したが失敗し、同時期に編成された親ソ連派のポーランド軍団への入隊を図る。1943年、ロシアのリャザンに設けられた士官学校で学び、・・・大戦末期における・・・ワルシャワ解放などに参加した。・・・1960年には軍政治総局長に、1965年には軍参謀総長に就任し、1962年に国防次官、1968年4月から1983年11月まで国防大臣を務める。・・・
1981年12月13日にポーランド全土に戒厳令を布告したものの、民衆の民主化要求に背くこの行為は、共産圏を除く世界各国から激しい非難を浴びる結果となる。戒厳令中の1983年2月に、史上初のポーランド出身のローマ教皇であるヨハネ・パウロ2世がポーランドを訪問した<が、>・・・ヤルゼルスキは「この時のローマ教皇との会見がその後の方向転換の大きなきっかけとなった」と後に語っている。・・・
教皇訪問後の1983年7月には戒厳令が解除され、ヤルゼルスキは社会主義の枠内での経済改革を試みたが、「連帯」率いる労働者からの支持が得られず効果は上がらなかった。その後1985年11月には国家評議会議長に就任したが、同年にソ連ではペレストロイカ政策を押し進める・・・ゴルバチョフが共産党書記長に就任し、その結果ポーランドをはじめとする東欧諸国にも民主化の波が急激に押し寄せた。この様な民主化の波を受け、1989年2月以降数度にわたり行われた「円卓会議」と呼ばれる「連帯」を中心とする反体制側との会議で、上院の新設や下院立候補の制限緩和、「連帯」の合法化などの大幅な民主化政策の実施についての合意を成立させ、民主化への道筋をつけることに成功した。
その後1989年6月に行われた部分的自由選挙では「連帯」系候補者が地滑り的な大勝利を収め、8月2日には統一労働者党(共産党)出身のチェスワフ・キシチャク内相を強引に首相に指名したものの、「連帯」が認めず組閣に失敗し、その後8月24日に「連帯」出身のタデウシュ・マゾヴィエツキが首相に指名された。ヤルゼルスキ自身は先立って行われた円卓会議での合意の下ポーランドの初代大統領に選出され、1990年12月まで大統領を務め、初の自由選挙で大統領に選出されたかつての政敵、ヴァウェンサにその座を譲って政界を引退した。・・・
実際のところ、ソ連の衛星国である当時の東欧諸国がその影響下から離脱しようとした時、ソ連が容赦なく軍事侵攻している事実がある以上(例、ハンガリー動乱、プラハの春)、戒厳令を敷かなければソ連政府はポーランドへ軍事侵攻を実行に移すことは明白であった。実際にソ連からは有効な対策を打たなければ実力行使を行うという期限付き最後通告を受けており、放置しておけばソ連の介入でポーランドが壊滅すると考えた末で戒厳令を決断したとされている<ところ、>・・・自らが悪者として泥をかぶりハンガリー動乱やチェコ事件のような悲劇を未然に防いだことは、彼自身の功績であるという考え方もできる。
また<、その後のペレストロイカ/冷戦終焉の時期に>ポーランド民主化運動<の>・・・弾圧を過激化させていたならば、平和的に無血で政権交代に及ぶことが出来ず、ルーマニア革命や、ユーゴスラヴィアの様な内戦に陥る不安もあったと言われている。
当時、鋭く対立していたヴァウェンサも<これら>の状況は理解しており、ヤルゼルスキ・・・に対する評価は現在の世論や政治家や司法ではなく、のちの世の歴史家の判断にゆだねるべきだと述べ<たことがあ>る。
東欧革命ではヴァウェンサに主役の座を譲ったが、彼自身も革命的政治家として、東欧革命の主役の一人であった。晩年は旧敵ヴァウェンサと親交を深め、時おり両夫妻で食事を共にするほどの仲であった。かつての宿敵同士は、いまや互いをこの世で最も理解する無二の親友となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AD
⇒ポーランド語でのインターネット上での諸文献を典拠としているこの邦語ウィキペディアは大変良く書けていると思います。
シュラフタを出自とする人々中、例外的に政治的なバランス感覚に長けたリアリストが、決定的な瞬間にポーランドの最高権力者になった、というか、彼に白羽の矢を立てた当時の統一労働者党の上層部を持っていた、ポーランドは幸運だった、とつくづく思いますね。(太田)
ヤルゼルスキは第9回党大会’81年7月14~30日)で次期党第一書記に選ばれた。」(178~181)
(続く)