太田述正コラム#9599(2018.1.22)
<大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判』を読む(その2)>(2018.5.8公開)
「<太原組>136名の敗戦時の階級や職業は、佐官級2名、尉官級38名、下士官・兵士25名、行政官吏27名、特務・憲兵・警察30名、企業職員14名であり、このうち戦後、閻錫山軍に参加したものが大多数の132名を占めていたとされる。」(79)
「<シベリア抑留組については、>1950年・・・7月18日、・・・<ソ連から>引き渡しを受け<、>・・・中<共>側が用意した明るく清潔な旅客用の・・・旧満鉄の・・・専用・・・客車・・・に乗せられ、炊き立ての白飯、肉とジャガイモの炒めもの、ささげとネギなどの食事が与えられた。
シベリアに抑留されていた5年間、黒パンや薄いスープでかろうじて生き延びてきた戦犯たちにとって<は>・・・「厚遇」<だった。>」(45)
「<太原組についても、>革命的人道主義に基づき、戦犯たちを厚遇した。・・・
⇒本当に「人道主義」だったとすれば、もともと、国際法的根拠なく(労役目的で長期に)シベリア抑留されていたところの「戦犯」達を、(仮に本当に戦犯である者がその中にいたとしても、処罰するつもりなど当初からなかったと思われる(後述)以上、なおさらですが、)またもや国際法的根拠なく中共で抑留し続けることなく、日本に帰還させるべきだったのであり、このような大澤のコメントは笑止です。(太田)
戦犯ひとりあたりの食費は・・・撫順ではひとりあたり中<共>人の4人家族の食費に相当する金額が充てられたと<され、>・・・毎日の食事には白米や小麦、肉や野菜が容易され、さらにタオルやせっけん、歯ブラシや歯磨き粉、煙草などの日常の生活用品も配られたという。
また、病人には特別に卵、ビスケット、牛乳、くだものなど栄養価の高い食品が与えられた。
また、衛生・医療面での厚遇も徹底しており、理髪室や浴室、診療所が設けられ、戦犯たちは週に一度の入浴や部屋の消毒、二週間に一度の散髪なども許された。
週に2、3度は指定の医師と看護婦が・・・<来訪し>て診察にあたり、入院して治療を受けた戦犯は19名、99名が783ヵ所におよぶ虫歯の治療を受け、39名が眼鏡を手配されたという。
さらに・・・戦犯を組織して、積極的な文化娯楽活動を展開し、彼らが”文化精神あふれる生活”を送れるよう配慮<され>た。
毎日、3時間以上の活動時間<が>与え<られ>、多くの戦犯がバスケットボールやコーラス、ダンス、楽器の演奏などを学んだという。」(80~82)
⇒シベリア抑留組の方は、収容所に入ってから、一時、待遇が悪かった時期があったようですし、待遇が再び改善されてからも、太原組とは違って、元の階級・地位に応じた待遇改善がなされてようです(頁省略)・・ちなみに、こちらの階級・地位別内訳はこの本には出てきません・・が、基本的には太原組と大差なかった、と見てよさそうです。(太田)
「時期は定かではないが、戦犯の管理について周恩来は、「外部は厳しく、内部は穏やかにする」「一人の逃亡者も一人の死亡者も出してはならない」「殴ったり、罵ったり、人格を侮辱してはならない」「彼らの民族的風習、習慣を尊重せよ」「思想面から彼らの教育と改造を行うことに意を用いよ」などの指示を与えた。」(55~56)
⇒ずっと以前に取り上げたことがあったような気がしますが、この類の指示は、(周恩来が日本に対して逆恨みを抱いていたということもさることながら、)日本大好き人間であったこともあり、毛沢東の了承、いや、指示なくしては行えなかったと考えるべきなのです。
問題は、にもかかわらず、「戦犯」達を引き続き抑留を続けさせたのはどうしてか、一体、「思想面から彼らの教育と改造を行う」とはどういうことだったのか、なのです。(太田)
(続く)