太田述正コラム#0556(2004.12.7)
<陸幕製憲法改正案?(その1)>
1 始めに
陸上幕僚監部防衛部防衛課防衛班に属する二等陸佐が元防衛庁長官の中谷元自民党憲法調査会改憲案起草委員会座長(衆議院議員)の求めに応じて憲法第9条にかかわる憲法改正案を提出したことが問題とされています(http://www.tokyo-np.co.jp/00/sei/20041205/mng_____sei_____003.shtml。12月5日アクセス)。
その後の論議を見守っているのですが、「憲法改正という高度な政治的課題に「制服組」が関与したことは、政治が軍事を監督するシビリアンコントロール(文民統制)を逸脱するとともに、公務員の憲法尊重擁護義務にも違反する可能性が高」い(東京新聞上掲)とか、「民主党幹部は「憲法の問題で『制服組』が問題提起するのは慎むべきだ」と強調した」(http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20041207AT1E0600W06122004.html。12月7日アクセス)とか、「現職幕僚が与党の憲法改正にむけた政治プロセスに加わるというのは何ともいただけない・・自衛隊幕僚といえば安保防衛のプロフェッショナル<であり、>おのずとプロとしての職業倫理がある<はずだ>。司馬遼太郎が昭和陸軍の幕僚にマユをひそめたのは、彼らにプロとしての合理性と倫理が欠けていたからだ」(http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20041207k0000m070140000c.html。12月7日アクセス)といった、無知に基づく暴論が横行しているのには、まことに腹立たしい思いがします。
2 相容れないが並存してきた日本国憲法と自衛隊・在日米軍
日本国憲法制定後半世紀もの時間が経過した現時点でいまだに、憲法第9条(の政府解釈)と自衛隊や在日米軍の存在は本来相容れない、という当たり前のことが理解できない人は度し難いのではないでしょうか(注1)。
(注1)この点について、正面から取り上げたコラムはないが、イラク特措法をめぐる法的諸問題を論じたコラム#227を参照。拙著「防衛庁再生宣言」では集団的自衛権問題にしぼって憲法問題をとりあげている。集団的自衛権問題についてはコラム#57も参照。このほか、有事法制問題については、コラム#21参照。また、古いので参照困難だと思うが、「専守防衛も憲法違反だ」(文藝春秋社「諸君」1981年4月号に掲載。「石垣成一」というペンネームで中川八洋氏と共同執筆したもの)も参考になると思う。
自衛隊を有事に決して使わない、という吉田ドクトリンの下で、かろうじて日本は憲法第9条を維持することができた、というだけのことなのです。
どうして今まで自衛官は、このような、自分たちが生かさず殺さずの煉獄に留め置かれるという不条理な仕打ちに耐えてこられたのでしょうか。
少数の自衛官は、いつかきっと軍事力の必要性が認められ、憲法第9条(の条文あるいは政府解釈)が改められる時代が来ると信じていたからですし、多数の自衛官は、国家公務員として給与と身分保障を(使われない、つまりは戦闘に従事することがない、わけですから)低リスクで享受できることに「満足」していたからです。
他方、米国が日本に憲法改正を正面から促さなかったのはなぜでしょうか。
日本に対する軍事的脅威がほとんどなく、日本防衛のために米軍を使わなければならないような事態は考えにくかったからです。
換言すれば、日本を米軍の前方展開拠点として利用さえできれば(=日本が米軍基地さえ提供してくれれば)、それ以上米国として日米安保条約の下で日本に求めるものはなかった、ということです。
3 状況の変化:その1
(1)エピソード
あれは確か1981年のことだったと思います。
統合幕僚会議事務局と陸海空幕が実施した日米共同作戦計画の初作成作業を「監督」する立場にあった私(当時内局防衛局防衛課総括・政策班長)は、大蔵省からやってきていた原徹防衛局長(後に防衛事務次官)に、ほぼ仕上がった作戦計画(案)の事前説明に一人で局長室に入りました。
この作戦計画の中に、日本の多数の法律の名前が列挙され、これらは作戦計画発動後、すみやかに国会で制定、或いは改正されるものとする、という趣旨のことが書いてあることを見つけた局長は、私を叱りとばしました。現行憲法・法律の枠内で共同作戦計画を作成する、との基本方針に反するではないか、というのです。
当然こんな大事なことは私の前任者から局長に既に説明されていたはずだと思いこんでいた私はびっくりすると同時に、局長のセンスを疑いました。
かりそめにも「防衛」局長が、憲法はさておくとしても、現行の諸法律だけで、しかも一切その中身に手をつけずに、日本有事において日米共同作戦を実施できる、と思い込んでいたのですから。
(2)第二次冷戦の始まり
日米共同作戦計画が作成されることになったのは、米国が対ソ・デタント政策を改め、第二次冷戦の開始を決意したためです。
米国は、極東地域が軍事上ソ連の弱点であることを踏まえ、日本をソ連への反抗拠点として活用しよう、そのために(それまで「放任」してきた)自衛隊も「使おう」、と考えたのです(コラム#30、58)。
こういう背景の下、1978年に日米間で「日米防衛協力のための指針」が「締結」(条約ではないとされたが、実態は条約)され、それまで存在しなかった日米共同作戦計画が作成されることになったのです。
米国が欲しいのは、対ソ戦の共同作戦計画(朝鮮半島有事にすりかえた、いわゆる極東有事の共同作戦計画)だけでしたが、日本側は(こんな物騒な作戦計画は後回しにして)まず日本防衛のための共同作戦計画の作成から始めたいと主張し、米国もしぶしぶこれに同意します。
こうして、状況は突然様変わりし、自衛隊は突然共同作戦計画なる「計画」上だけの話しとはいえ、「使われる」立場となってしまったのです。
やがて、日本防衛のための初の共同作戦計画がほぼできあがります。
自衛隊が「使われる」上、米軍までもが日本国内で「使われる」作戦計画である以上、それが憲法上疑義のあるものになることは当然でした。
もとより、作戦計画の中では法律の改正・制定としか記されておらず、憲法との関係は触れられていませんでしたし、私自身も精査したわけではありませんが、米側の米軍(及び自衛隊)運用上の要求をほぼ全面的に受け入れた結果であったことから、憲法上疑義のある改正・制定が含まれている可能性が高い、と当時私は判断していた、ということです。
(続く)
<読者J>
太田さんいよいよ本論に入ってきた感があります。
シビリアンコントロールとは何かを問う時機です。
現在の参事官制度が制服組の不満を掻きたていること以上に防衛問題への政治家の無理解無知が背景にあることには異論はないと思います。
戦前のいやく上奏制度のもとで軍の特権的な地位を確保できたのは、天皇の統帥権にあったこと、その楔から放たれ、事務次官と統合参謀長官が同列になり、制服組が小泉首相に直接意見を具申できる状況を期待していることは理解できます。
そこには、民主主義の根幹にある、シビリアンコントロールをどのように確保するか。
米国の要請の元ですべてが決定させている現状に対して、日本という国家の意思をどのように反映させるか考えなくてはいけません。
イラク派遣の時に、日米同盟を維持するために決定されたのに、詭弁を弄して『非戦闘地域』なる概念を持って正当化することはもはや説得力をもち得ないし、国民を欺くものです。
在日米軍再編では日米双方とも、日本国内の反発をおそれて、具体的な政策の協議内容を明らかにせず、まず抽象的な基本理念の合意を前面に打ち出し、なし崩し的に具体的措置を進めていく作戦で一致している。
12月6日付の朝日新聞で米国防省のバリー・パベル戦略部長はつぎのように言っている。
「・・・(見直し作業の中で)特に重要なのが法制面の整備だ。地位協定など、受入国との取り決めの多くは、今とは異なる時代状況のもとで結ばれたものだ。今後予想される局面では即応性が問われる。そのたびに受入国の議会承認が必要だとすれば効率的な対応は出来ない。21世紀にふさわしい取り決めに改善する必要がある・・・」
時期は熟した。
しかし、丸投げはいけません。
憲法改正案の安全保障関係の部分が殆ど自衛隊制服幹部の手になるものであったことがばれて大騒ぎになったからだ。これは単に「シビリアンコントロールを逸脱した」という野党側からの批判に答える為だけではない。
制服組に改革案を丸投げしたお粗末な中谷起草委員長に対する自民党内部からの批判が原因だ。
太田さんの出番が廻ってくるのも遠からずだ。