太田述正コラム#0559(2004.12.10)
<胡錦涛時代の中国(その4)>

 (2)胡錦涛体制による軌道修正?
  ア 反日ナショナリズム政策の放棄へ?
 ほぼ1年ぶりに開かれた、現地時間11月21日の日中首脳会談(於チリ・サンチャゴ)では、「胡錦涛国家主席が、従来にない直接的な表現で小泉純一郎首相に靖国神社参拝中止を迫った」とされています。
一夜明けて22日、首相が、今後の参拝予定について「何も言わないことにした」と変化をうかがわせた」のはそのためだ、というのですが、実際のやりとりはかなり違ったものであったのではないでしょうか。
 というのは、この会談は予定の30分を大幅に超えて一時間以上に及んだだけでなく、「会場から足早に出てきた小泉首相は、軽く笑みを浮かべていた。胡主席は、それから8分間、会談場所に閉じこもり、記者団の前に姿を現した時の顔はややこわばっていた」からです。
(以上、http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20041123k0000m010150000c.html(11月23日アクセス)による。)
 私のヨミはこうです。胡錦涛は、靖国問題を棚上げにしたいと考えているので小泉首相も協力してくれないかと話を持ちかけ、この新たな提案をめぐって突っ込んだやりとりが行われ、その過程で小泉首相は、それでは今後参拝は「静かに」行うことにする、と答えたのではないでしょうか。
 そうだとすると、なぜ小泉首相が「軽く笑みを浮かべて」会場を後にしたのか理解できます。
 胡錦涛が会場を出るのが遅れたのは、この提案にびっくり仰天した中国側の同行陣から胡錦涛に対し、提案の真意についての質問が出るとともに、この会談内容の対外公表ぶりについて、日本側との事前調整(冒頭の「」内)通りでよいかという確認が行われたためだ、と考えられるのです。胡錦涛の顔がややこわばっていたのは、重大な政策転換への第一歩を踏み出した緊張感からでしょう。
 根拠は二つあります。
 一つは、中国側が今回の首脳会談の結果を高く評価していることです。
 中国外務部の報道官は、上記首脳会談とラオスでの小泉・温家宝首相会談について、「われわれは、こうした首脳会談が両国関係の改善と発展に重要な意義を持つと考える。双方がいずれも両国首脳会談の成果を重視し、両国関係がいっそう改善され、前向きに発展することを望んでいる。」と述べています(http://j.peopledaily.com.cn/2004/12/08/jp20041208_45847.html。12月9日アクセス)が、これは上記首脳会談が決裂に終わったのではなく、この会談において重要な進展があったことを意味しています。(しかも、その進展の内容は日本にとって有利なものであったわけです。)
 もう一つの、より根本的な根拠は、反日ナショナリズム政策はいわば緊急避難的に打ち出されたものであって、これ以上この政策を継続することは、中国共産党の墓穴を掘ることになりかねないからです。
 要するに私は、胡錦涛は靖国問題の棚上げに乗り出したのであって、これは中国の反日政策の放棄を意味し、しかも中国が反日ナショナリズム政策そのものを放棄する前触れである、と見ているのです。

  イ 反日ナショナリズム政策放棄の必要性
 中国共産党が反日ナショナリズム政策を継続できない理由は、日本の世論を敵に回すことになりかねない、ということもありますが、何と言っても、それが偽りの歴史認識に立脚した政策であるところにあります。
 偽りの第一は、日支事変(先の大戦のアジア戦域)の勝利は米国によってではなく支那によってもたらされた、という歴史認識です。
 偽りの第二は、その支那で中心として戦ったのは共産党の人民解放軍であった、という歴史認識です。
 偽りの第三は、日支事変の原因をつくったのも、きっかけをつくったのも日本であった、という歴史認識です。
 偽りの第四は、日支事変において日本軍(だけ)が支那の民間人虐殺を繰り返し行った、という歴史認識です。
 第一の歴史認識については、終戦時まで支那で日本の占領下に置かれていた地域がほとんど減少していなかった、という一点だけで粉砕されます。
また第四の歴史認識については、終戦後台湾の中華民国政府も、日中国交回復後の中華人民共和国政府も日本への賠償要求を全面的に放棄したことによって、法的に偽りであったことが確定している、と見ることができます。
 第二と第三の歴史認識については、中華人民共和国に靖国神社に相当する戦没者慰霊施設がないことだけとっても、そのいかがわしさは明らかです。
 どうして戦没者慰霊施設がつくれないのでしょうか。
 それは、日本軍と戦って斃れた国民党軍兵士は300万人と推定されるのに、人民解放軍の死者は推定50万人に過ぎず、実質国民党軍兵士のための慰霊施設などつくるにつくれないからです。しかも、共産党にとっては、終戦後の国民党との内戦の方が、対日戦よりもはるかに厳しい戦いでした。日支事変の戦没者慰霊施設をつくるのであれば、内戦の戦没者慰霊施設もつくらなければなりませんが、一体それは誰を慰霊することになるのでしょうか。
 もう一つ悩ましいのは、終戦時に日本と共に戦った南京政府軍140万人が在支日本軍とともに降伏していることです。
 これらの事実が示唆しているのは、支那の満州事変から日支事変にかけての時代は、国民党反日派と国民党親日派と共産党の三つどもえの内戦の時代であったということです。
(以上、http://www.atimes.com/atimes/China/FL04Ad06.html(12月4日アクセス)及びhttp://www.nytimes.com/2004/12/06/international/asia/06textbook.html?pagewanted=print&position=(12月6日アクセス)による。)

(続く)