太田述正コラム#9617(2018.1.31)
<キリスト教の原罪(その4)>(2018.5.17公開)
<キリスト教徒達は、>トラヤヌスやその他の多神論者たる諸当局とは違って、正しい唯一神にとりあえず祈祷することで処罰を免れる機会を、彼らの反対者達に与えることはなかった。
それどころか、キリスト教徒達は、反対者達の諸自宅、更には、彼らの諸頭の中までも、唯一の真の神に反する秘密の諸罪を見つけるために調べ上げた。・・・
⇒多神教と一神教の違いこそあるけれど、ざっくり言えば、ユダヤ教とイスラム教も、広義の儀典さえ守っておれば、人の内心にまで立ち入らないのに対し、同じアブラハム系宗教であるキリスト教は、この点で決定的に異なるわけです。(太田)
今日、我々が諸人権や市民的諸自由と呼ぶところのものの諸侵害を行うことが、宗教的協調(conformity)の名の下で認められたのだ。
415年に、アレキサンドリアで、哲学者で教師であったヒュパティア(Hypatia)<(コラム#4810)>は、魔女だとして、キリスト教徒達の一群によって、襲われ、石を投げつけられ、皮を剥がされ、ぶつ切りにされ、燃やされた。
古典学、文学、そして、哲学、は、今や全て疑いの対象になった。
この新しい信仰について敬虔であるとは、公的な宗教的実践に参加するだけではなく、この新しい「現実」に適合するように、諸心、諸頭、美術、建築、そして読むもの、を形成(mould)することでもあるのだ。・・・
<思い起こせば、>ローマのエピキュロス派の詩人のルクレティウス(Lucretius)<(コラム#4342、5017、5132、7063、7067、8228、8236)>は、1世紀にこう書いていた。
「宗教は、人々を、かくも多くの悪をなすよう説得した」、と。
<まさに、その通りのことがここでも起こったわけだ。>・・・
著者は、賢明にも、この本の始めにおいて、この文化的暴力譚は、「彼らのキリスト教信仰によって、沢山の沢山のよい諸事を行うよう駆り立てられた」人々に対する攻撃として読まれてはならない、と執拗に主張している。
それどころか、この文化的暴力譚は、「一神教」(ないしは、宗教一般、そして、とりわけキリスト教、と言ってもよいかもしれない)が、「悍ましい諸目的(terrible ends)」のために用いられ得ることについての注意喚起なのだ、と。」(C)
「<この>ヒュパティアの件は我々は聞かされている。
(スペイン映画の『アゴラ(Agora)』の中で劇的に描かれた出来事だ。)
それに比べて、少なくとも英語圏の世界では、よく知られていないのがシェヌーテ(Shenoute)<(注10)>の件だ。
(注10)347~465年/348~466年。「彼の叔父は別の著名なエジプト人の聖人で、白修道院として今日知られている上エジプトの修道院の創立者ある聖ピゴルであった。・・・シェヌーテがこの業務を引き継いだ時、修道院は30人の年老いた修道士が住んでいるだけだった。466年の彼の死の際には、修道院は2,200人の修道士と1,800人の修道女を有し、面積は元の3,000倍を超えていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%86
https://en.wikipedia.org/wiki/Shenoute
以下で紹介される話は、上掲の邦語、英語両ウィキペディアには出てこない。
ヒュパティアの同時代人であった彼は、<アレキサンドリアより>ずっと南の、田舎のエジプトに住んだ。
そこで、彼は、今日白修道院・・今でもソハグ(Sohag)の町に立っている・・として知られている建物群からなる修道院の院長になった。
シェヌーテは、今日、コプト(coptic)教会の聖人とみなされているが、彼の敬虔性は、とりわけ醜い装いの下で立ち現れた。
彼は、その神学的な諸見解が不健全であると感じられたところの、住民達の家々に叩き入り、自分達が、宗教的諸理由で異議のある、いかなる財物もぶち壊した、一群の一味だったのだ。・・・
(続く)