太田述正コラム#9619(2018.2.1)
<キリスト教の原罪(その5)>(2018.5.18公開)

 この本の中では、初期のキリスト教徒達は、諸学園を廃止し、諸神殿を閉鎖し、美術品を略奪したり破壊したりし、伝統的諸実践を禁止し、諸本を焼き捨てる、傾向が<ローマの宗教に比して>よりあった。
 キリスト教徒達について、彼らが僅かばかりの古典的智慧を保全したことを称賛するのではなく、著者は、我々は、彼らがどれだけ意識的にそれを消し去ったかを認めなければならない、と主張する。・・・
 <キリスト教徒達の>この破壊への嗜好は、一体どこから来たのだろうか。
 著者の短い答えは単純なものだ。
 悪魔(demon)達だ。
 多くの古のキリスト教徒達は、我々が生息するこの世界は危うい場所であって、紛い物の神々の形をして自分達自身を時々顕現させるところの、禍々しい超自然的な諸存在で満ち満ちている、と信じていた。
 <そして、>これらを根絶やしにすることはキリスト教徒の義務だと・・。
 だとすれば、「異教の」像を破壊したり本を焼き捨てることは、壊疽の脚を切除することよりも暴力的な行為ではなく、この感染の伝染を防止することで健康な全体を救う行為なのだ、と。・・・
 しかし、悪魔達は物語の半面でしかない。
 真に非難すべきは、教父達の戸口において<説いたところ>の諸嘘だ、と。
 彼らによる背筋がぞくぞくする諸説教は、暴力的差異なる二極化的修辞を強めた。
 <すなわち、彼らは、>「豊かな隠喩のつづれ織り」を織りなし、神学的反対者達について、あらゆる諸種類の畜生的、害虫的、疾病的、にして、生来的に悪魔的、であると説明したのだ。
 それは、彼らの諸敵に対するキリスト教徒の憤怒の諸炎を掻き立て、それを1000年間にわたって激しく燃やし続けたところの、一握りの選良たる男達による強力にして毒々しい言語であるところの、言語それ自体<がなしたわざ>だった。
 <こうして、>「神政的抑圧の1000年の知的諸基盤が敷設されたのだ。」」(A)

 (4)著者への批判

 この本に弱点があるとすれば、まさにそれは、そのギボン的ルーツに由来する。
 基本的には、この本は、古典的遺産は本質的に優しく(benign)理性的(rational)であったこと、そして、キリスト教の出現(advent)は、(その中からルネッサンス期の人本主義者(humanist)達によって引っ張り出されるまで、)文明の暗黒への沈下を画した、という、啓蒙主義の観点の再言挙げだ。・・・
 それでは、我々は、ローマ人達の、キリスト教徒達を殺すという不幸なる習慣をどう説明するのだろうか。・・・
 <著者は、>彼らは、キリスト教徒達の殉教に対する倒錯した欲望によって、そうすることを強いられたのだ、と言う。
 これは、キリスト教より前のローマ人達自身の野蛮な諸属性を殆ど隠蔽しているに等しい。」(A)

(続く)