太田述正コラム#9621(2018.2.2)
<キリスト教の原罪(その6)>(2018.5.19公開)
著者のこの本の中に見出すもの、と、均衡と客観性を維持しつつ、見過ごされてきた見地を若干強調すること、との間には画然たる違いがある。・・・
<著者は、>「迫害が合わせて13年間にもならない」ということを銘記すれば、ローマ支配の3世紀丸々の中で、「皇帝が命じた[キリスト教徒達の]迫害が行われた年々はそれほどなかった」<、とする>。・・・
これは本当だが、それは、「皇帝が命じた迫害」に物事を限った場合だけの話だ。・・・
キュベレー(Cybele)<(注11)>とアッティス(Attis)<(注12)>のカルトのような若干のものに対する迫害のように、最初における敵対的で抑圧的な諸規制が、やがて、緩和され、受容されるに至った場合はある。
(注11)「アナトリア半島のプリュギア(フリギア)で崇拝され、古代ギリシア、古代ローマにも信仰が広がった大地母神である。名前は「知識の保護者」の意を示している。・・・ヘレニズム時代のもっとも熱狂的なキュベレーの信奉者は、みずからを聖なる儀式で完全去勢した男性たちで、この儀式の後、彼らは女性の衣装をまとい、社会的に女性とみなされた。・・・女神は、性器切断された後、甦った息子であるアッティスをめぐる秘儀宗教と関連していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%99%E3%83%AC%E3%83%BC
「フリギア(Phrygia・・・)は、古代アナトリア(現在のトルコ)中西部の地域名・王国名である。・・・フリギア人(・・・Phrygians)は、インド・ヨーロッパ語族のフリギア語を話す人々で、おそらく<欧州>から紀元前12世紀頃移住してこの地域を支配し、紀元前8世紀に王国を建てた。しかし紀元前7世紀末頃キンメリア人の支配に屈し、その後隣接するリディア、さらにペルシャ、アレクサンドロス3世(大王)とその後継者たち、そしてペルガモン王国に支配されたのち、ローマ帝国領内の地域名として名を残した。フリギア語は6世紀頃まで残った。・・・
神話中のフリギア王はゴルディアースまたはミダースを名乗っている。またタンタロス(リディア王ともいう)をフリギア王とする伝承もある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%82%A2
(注12)「フリギアを起源とする死と再生の神の一つであり、その信仰は、キュベレー信仰と共に古代ギリシア、古代ローマまで広がった。一部の像などでは有翼の男性として表される。・・・女神キュベレーの息子かつ愛人である。同時に去勢された付き人であり、ライオンが牽引するキュベレーの戦車の御者でもある。彼はキュベレーの手で正気を失い、自ら去勢した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9
<しかし、>60年にガイウス・スエトニウス・パウリヌス(Gaius Suetonius Paulinus)<(注13)>による大きな軍事作戦において、ドルイド(druid)<(注15)(コラム#6801)>達の、アングルシー(Angelsey)島<(注14)>における、最後の根拠地(stronghold)が陥落させられ、彼らは全滅させられている。
(注13)生没年不詳。「ローマ支配下のブリタンニア長官<として、>・・・[60年ないし]61年、・・・第14軍団ゲミナを率いてブリタンニアの抵抗勢力が立て篭もるドルイドの要塞があった北ウェールズのモナ島<(Ynys Môn)>(現在のアングルシー島)鎮圧に当たっ・・・た。彼の不在に乗じた南西ブリタンニア諸族はイケニ族の女王ブーディカを中心に蜂起、反乱を開始した。・・・ブーディカ軍は・・・ロンディニウム(現在のロンドン)・・・に次いでヴェルラミウム(現在のセント・オールバンズ)にも攻め入り、これらの都市は破壊され尽くした。・・・何とか10,000人の軍団を集めたスエトニウスは、・・・タキトゥスによれば100,000、カッシウス・ディオによると230,000といわれるブーディカの大軍と対峙し・・・ワトリング街道の戦いと呼ばれるこの戦闘で・・・圧勝を得た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%8C%E3%82%B9
https://en.wikipedia.org/wiki/Gaius_Suetonius_Paulinus ([]内)
ドルイド達の全滅については、(自分の義理の父であるアグリコラ(Agricola)が従軍していたと思われる、)タキトゥスの『年代記<(Annals)>』に記述がある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Roman_conquest_of_Anglesey
https://en.wikipedia.org/wiki/Anglesey (<>内)
(注14)位置、及び、地図。
https://en.wikipedia.org/wiki/Anglesey#/media/File:Isle_of_Anglesey_UK_location_map.svg
(注15)「ドルイド(Druid)は、ケルト人社会における祭司のこと。・・・宗教的指導のほか、政治的指導、公私の争い事の調停と、ケルト社会<で>重要な役割を果たしていたとされる。・・・ガリアの<ケルト人>社会は他のインド・ヨーロッパの民族にも見られるような知識層(祭司)・騎士・民衆の三層構成を成していた。・・・
プリニウスの『博物誌』によると、ドルイドが珍重したのはヤドリギの中でもロブル(オーク)に寄生した<神性>だけで、彼らはオークの森を聖なる地とした。・・・<また、>複数の古典文献において、ドルイドが人身御供の儀式に関わっていたことが記されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%89
<更に、>紀元前186年に、<(注16)>バッカス(Bacchanalian)・セクトが、認めるには余りにも異国的で放縦であるとみなされ、元老院は、捜査の上、数千人の人々を逮捕し、その多くを投獄ないし処刑している。
(注16)「バックス(Bacchus)またはバッコスは、ローマ神話のワインの神である。ギリシア神話のディオニューソスに対応する。ディオニューソスの異名バッコスがラテン語化してバックスとなったもの。日本ではしばしば英語読みのバッカスで言及される。
イタリアでバックスの祭祀が始まったのは紀元前2世紀からである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%A5%9E%E8%A9%B1)
リウィウス(Livy)は、このセクトは、性的狂騒を旨としていた、と記している。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bacchanalia
ティトゥス・リウィウス(Titus Livius。BC59?年~AD17年)は、「共和政末期、帝政初期の古代ローマの歴史家。単にリウィウスと呼ばれることが多い。アウグストゥスの庇護の下に『ローマ建国史』を著した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9
⇒ここで登場した三つの宗教/カルトは、いずれも、いかにも、我々の感覚で言うところの「邪教」であり、基本的にローマ側の記録しか残っていないことから、邪教性の真偽を見極めるのは困難ではあるものの、当局によって、多かれ少なかれ、迫害されて当然、という感が否めませんね。(太田)
(続く)