太田述正コラム#0569(2004.12.20)
<マキアヴェッリとヒットラー(その2)>
(3)結論への補注
「これまで外国の侵入に苦しめられてきた・・イタリア・・において・・救世主がどれほどの熱愛・・どれほどの復讐への渇望や断固たる忠誠心、献身、涙をもって迎えられるかは筆舌に尽く難い。・・それゆえ高貴なるあなたの一門は、正義にかなった事業を起こすときの勇気と期待とをもってこの任務を担うべきである。」というくだりが『君主論』の終わり近く(319??320頁)にあり、かつマキアヴェッリがこの本をメディチ家の当主ロレンツォ・デ・メディチ(小ロレンツォ。Lorenzo de Medici。1492??1519年)(注2)に捧げているからといって、マキアヴェッリが『君主論』を欧州統一ではなくイタリア統一を念じて執筆した、と考えるわけにはいきません。
(注2)偉大だった彼の祖父の大ロレンツォ(il Manifico=The Magnificent。1449??92年)と同姓同名なのでしばしば混同される。
マキアヴェッリのこの献呈や本文の記述は、あわよくばメディチ家へ再就職したいと考えてゴマスリ目的のためになされただけだったからです(前掲書解説128、131頁)。
佐々木教授が、マキアヴェッリの他の著作である『ドイツ事情報告』・『ドイツの状況と皇帝についての論考』・『ドイツ論』及び『フランス人について』を踏まえつつ、「マキアヴェッリにとってはイタリア<は>腐敗と堕落の巣窟であり、・・<また>・・フランスではイタリアやスペイン同様、政治的、社会的不平等が極めて大き<いのに対し>・・ドイツ<こそ>自由と素朴さによって・・理想の世界<であった>」(前掲書解説90、92、101、102頁)と指摘していることからも分かるように、マキアヴェッリは欧州全体を視野に入れており、その中で彼が真に希望を託していたのはドイツだったのです。
そして、彼が『君主論』を本当に献呈したかったのは、まだ見ぬ将来のドイツの「君主」に対してであったに違いない、と私は見ているのです。
3 理想の「君主」ヒットラー
(1)「君主」の来臨
ア 始めに
『君主論』の執筆が完了したのは1512年末であったと考えられています(前掲書解説168頁)。
それから、400年以上も経過してから、ようやくマキアヴェッリの申し子たる理想の「君主」がドイツに現れるに至ります。
アドルフ・ヒットラーその人です。
イ 意地汚い「君主」
今月、ヒトラーの意地汚さが明らかになりました。
ヒトラーは確信的脱税常習犯だったのです。
彼の脱税は少なくとも1921年には始まっていたと考えられています。
ベストセラーとなった『我が闘争』を出版した1925年から総統に就任する1933年までの約8年間、ヒトラーはこの本の印税だけでも120万ライヒスマルクもの収入がありましたが、自家用車を「公用」と弁明したり、運転手と秘書の経費がかかったと称したり、慈善事業に寄付したと虚偽の報告をするなどして所得税の滞納を続け、その「滞納額」は確定額だけで約40万5,000ライヒスマルク(現在の貨幣価値で約8億4,000万円)に達していました。
ヒトラーは総統就任後、上記滞納額について担当税務署長に「納税免除」の決定を出させ、しかもその事実を口封じし、見返りにその署長を昇進させたというのです。当然と言うべきか、それ以降も、ヒトラーは首相としての給与を年間約4万5,000ライヒスマルクももらっていたのに、一切所得税を払おうとはしませんでした。
利己心を捨てて公のために奉仕するようにドイツ国民に呼びかけながら、鉄面皮にもご本人はそれと正反対のことをやって恬として恥じなかったわけです。
(以上、http://www.tokyo-np.co.jp/00/kok/20041218/eve_____kok_____001.shtml(12月18日アクセス)、http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1376472,00.html(12月18日アクセス)、及びhttp://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20041219ddm007030057000c.html(12月20日アクセス)による。)
この点だけとってもヒトラーは、まさにアレクサンデル/チェーザレ父子と生き写しであり、マキアヴェッリ的「君主」の鑑ではありませんか。
(続く)