太田述正コラム#9641(2018.2.12)
<キリスト教の原罪(その15)>(2018.5.29公開)
「暗黒時代・・歴史学者達が今日誤解を呼ぶととして使わないようにする傾向がある言葉・・は、広範に、概ね、500年から1000年まで続いたと考えられている。・・・
著者のバージョンは、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の読者達にとってはお馴染みの語り口を信奉している。・・・
<しかし、>異教主義について、多元主義的でリベラルな諸文明と同値であると肩入れをしている・・・著者は、例えば、2世紀のギリシャ人医師のガレノス(Galen)<(注30)>による諸実験くらいしか、証拠を上げることなくして、近代初期のそれに比肩しうるような経験科学の成長を異教のローマ帝国は目撃する瀬戸際まで来ていた、と主張している。
(注30)129?~200?年。「ヒポクラテスの医学・・・<・・>人体が血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁から成ると<し、>・・・それらは古代の四大元素によって定義付けられ、かつ四季とも対応関係を持つと<する>・・・四体液説<・・>・・・をはるばるルネサンスにまで伝えた。・・・
ガレノスの知識は、生きた動物を使った臨床実験によって広がりを見せた。・・・
プラトンにも一致するガレノス<固有>の理論は、単一の造物主による目的を持った自然(ギリシャ語physisピュシス、英”Nature” )の創造、を強調した。後のキリスト教徒やムスリムの学者たちが彼の見解を受け入れえた理由がここにある。・・・
ガレノス以後、ローマ帝国においては目立った医学の進歩は起きなかった。ローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国領となった<欧州>においてはガレノスの著作はほとんど消失してしまった。西ローマの遺領が混乱を続けた上、ガレノスはギリシア語で著述しており、西ローマ帝国はラテン語圏であったからである。一方で、東ローマ帝国においては政情の安定とギリシア語圏であったことからガレノスの著作は残り、医学の正典となっていった。・・・
<アナトリア半島の>ペルガモンで生まれ・・・マルクス・アウレリウス・アントニウス・・・コンモドゥス・・・セプティミウス・セウェルス・・・<各ローマ皇>帝の侍医<を務めた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%82%B9
⇒ここは、書評子に軍配を上げたい気持ちです。
「古代ギリシアの科学は一般的には、観察、実験、計算をややもすれば軽視する風潮があった。しかし自然について客観的で抽象化した見方、論理的な考え方と、普遍的な法則をたてようとする意欲をもっていた点で、科学精神の本質に迫っていたように思われるし、明らかに近代科学の萌芽を内包していた。・・・ギリシア科学は、イオニアでの思弁的科学に始まり、ヘレニズムの時代に実証的科学への手掛りをつかむところまで行き着いた。前2世紀、ローマの勢力が東方に及ぶなかでその活発な活動を停止していく」(小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%A7%91%E5%AD%A6-1159858
というのですから、ギリシャ科学の経験(実証)科学化の挫折はキリスト教による、とは言い難いからです。
私は、この挫折の原因は、ローマやキリスト教といった、外に求めるべきではなく、ギリシャ科学に内在していた演繹的・合理論的偏向にある、という見方をしています。
ガレノス自体の基本的な物の考え方もそうですよね。(太田)
では、初期教会にまで遡る、キリスト教徒達による異教の諸迫害なるものはどうか。
若干の疑問符の付く同時代の諸年代記に拠って、著者は、自殺することによって殉教者としての地位を得ようとまでした場合があるところの、全ての諸殉教は、キリスト教達が全て誘発したものである、と著者は執拗に主張する。
欧米修道院制度の創建者であるベネディクトゥス(Benedict)<(注31)(コラム#6725)>については、著者の見解では、彼は、「欧州古代の著名なる破壊者」でしかない。
(注31)ヌルシアのベネディクトゥス(羅:Benedictus de Nursia。480?~547年)。「小さな町ヌルシア(現在のウンブリア州ノルチャ)の古代ローマ貴族の家系に生まれた。・・・
529年ころイタリアのローマとナポリの間にあるモンテ・カッシーノ(<現在の>イタリア共和国ラツィオ州)に修道院を設け、540年ころ修道会則(戒律)<・・>厳格派と穏健派の中道をつらぬき、労働と精神活動について定めた<もの・・>を定めて、共同で修道生活を行った。彼の戒律に従った修道会の一つをベネディクト会と呼ぶ。・・・西方教会における修道制度の創設者と呼ばれ、ベネディクトスの著した会則は西<欧>に広く普及し、やがて「西欧修道士の父」と称されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9
その、読み易い、かつ、騒々しいエネルギーでの語り口にもかかわらず、著者は、自由人と奴隷、男達と女達、ギリシャ人とローマ人、ユダヤ人と非ユダヤ人(gentile)との間の分裂の諸壁を、物理的に破壊するのではなくて解消(bring down)するところの、キリスト教的愛(agape)という、根本的変革のメッセージをもってキリスト教を称賛することはない。
⇒キリスト教の愛は、利他の奨励なのであり、これが、利他だけで生きる聖職者とそうは行かない俗人の分断をもたらし、それが更に、俗人の間での、聖職者への寄進による免罪によって担保された利己の追求の促進をももたらした、というのが、(かなり前から、利他主義の危険性を指摘してきたところ、その新たな表現であるところの、)私の考えです。(太田)
(続く)