太田述正コラム#9653(2018.2.18)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その3)>(2018.6.4公開)

 「寛政異学の禁<(注4)>・・・その上に成った昌平坂学問所<(注5)>・・・。

 (注4)「寛政2年5月24日(1790年7月6日)、江戸幕府老中・松平定信が寛政の改革で行った学問の統制である。
 江戸幕府による朱子学を中心とした儒学政策は、徳川家康の林羅山登用に始まり、徳川綱吉の湯島聖堂建設で最高潮に達した。だが、徳川吉宗は理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、加えて古文辞学や古学などが流行したこともあって朱子学は不振となり、湯島聖堂の廃止さえも検討された・・・。
 松平定信が老中となると、田沼意次時代の天明の大飢饉を乗り越え、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、また当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として規制を図った。
 そこで寛政2年(1790年)5月24日に大学頭林信敬に対して林家の門人が古文辞学や古学を学ぶことを禁じることを通達し、幕府の儒官<(2名)>・・・に対しても同様の措置を命じた。更に湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験も朱子学だけで行わせた。また、林信敬の補佐として<上出2名>に加えて<2名(注5参照)>を招聘して幕府儒官に任じ、更に荒廃していた湯島聖堂の改築を行った。寛政4年(1792年)9月13日には旗本・御家人の子弟を対象として朱子学を中心とした「学問吟味」を実施させた。
 寛政5年(1793年)4月に定信主導の学制改革に必ずしも協調的とは言えなかった大学頭林信敬が嗣子の無いまま急死すると、幕府はその養子縁組にも介入して譜代大名松平乗薀の子である乗衡を養子として送り込み、林家の湯島聖堂への影響力を抑制した。そして同年7月の松平定信の老中辞任後も将軍徳川家斉の意向によってこの政策は継承され、湯島聖堂から学問所を切り離して林家の運営から幕府直轄の昌平坂学問所に変更した。寛政11年(1799年)11月には定信時代からの懸案であった湯島聖堂の改築が完成し、以前よりも敷地・施設よりも大規模なものとなった。享和元年(1801年)4月20日には将軍徳川家斉が徳川家宣以来絶えていた湯島聖堂参詣を行い、ここに定信の正学復興の意図はほぼ完成した。
 ただし、「寛政異学の禁」の本来の趣旨は昌平坂学問所などの幕府教育機関における異学の講義を禁じることを意図しており、国内の異学派による学問や講義を禁じられたわけではない。例えば、幕末期に昌平坂学問所の儒官であった佐藤一斎は元々陽明学を学んでいたため、学問所では朱子学を、自宅では陽明学を教授していたが、学問所での講義でも朱子学の学説について一通り論じた後に、本来は異学の禁に反する朱子学と陽明学の比較にしばしば踏み込んだ話をしたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E7%95%B0%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A6%81
 (注5)「1790年(寛政2年)、・・・林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など、1797年までに制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。この時外部から尾藤二洲・古賀精里が教授として招聘され、以後は直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%9D%82%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80

 ここにおいて、儒学経書の政治哲学が本来的に有する政治権力の形成・維持の目的が、徳川日本の現実に発現されたのである。・・・
 <もっとも、>津田左右吉<(コラム#233、2524、2888、4145、8940)は、>「儒家の道徳教は、古往今來、曾て我が国民の道徳生活を支配下ことが無かった」と論じ<ている。>・・・
 時代・地域・社会階層を限定せずに徳川期の「国民思想」を対象とすれば、たしかに、・・・学問教育内容における正統性(orthodoxus)<と>・・・幕府の政治体系における正統性(legitimatus)<の>・・・二重の正統性が結合した「政教」は日本社会全体では十分に効力を発揮しなかった。・・・
 <とはいえ、>昌平黌<(注6)>やその後の昌平坂学問所<は、>・・・学校教育や学問気味という試験制度を通して、江戸の幕臣たちや諸藩からの書生たちの政治意識形成に影響力を行使した<ことは間違いない。>」(10~12)

 (注6)「昌平坂学問所」の正式名称は「学問所」であり、「昌平黌」、そのもう一つの通称であると一般にされている(上掲)以上、ここは、眞壁の記憶違いであろう。

⇒「異学の禁」などというおどろおどろしいネーミングがそぐわないユルい学問規制でしたし、当時の日本が、幕府と各藩からなる、独特なる連邦制国家であったことから、日本の大部分では殆ど規制すらなかった、というわけです。
 なお、「朱子学を中心とした「学問吟味」」と言っても、それは、「儒学というより、経世済民について(人間主義的)存念を問うものであったと考えられ」(コラム#8064、8074)、科挙的なものでは全くなかったことにも注意が必要でしょう。(太田)

(続く)