太田述正コラム#9655(2018.2.19)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その4)>(2018.6.5公開)
「徳川幕府の「御触」の作成過程は、一般に、老中からの命を受けて書記役である右筆が草案を起草し、それを監察役の目付が「論駁」批評をおこなって秘密裡に吟味にかけ、さらに必要に応じて儒者が表現を「潤色」するという工程をたどる。・・・
たしかに立法過程におけるこのような儒者の役割を踏まえれば、徳川時代には「儒人を用ひてこれを政府に入れ機密に預からしめたることなし」という、儒者の政治参与に対して消極的な評価を下す木村喜毅<(注7)>(芥舟、旧軍艦奉行)の・・・認識は、誤りであるとは言えない。・・・
(注7)よしたけ。かいしゅう。1830~1901年。「旗本(幕臣)。・・・林●<(木偏に聖)>宇に師事して学<ぶ。>・・・講武所に出仕・・・幕府海軍軍制取締、浜御殿添奉行、本丸目付、長崎海軍伝習所取締、・・・開成所の頭取・・・軍艦奉行、勘定奉行等幕府の要職を歴任。咸臨丸の総督を務め、明治維新後は完全に隠居し、福澤諭吉と交遊を重ねて詩文三昧の生活を送った文人である。
死没の日付で正五位に叙されているが、幕末の幕閣で明治以後に位階勲等を受けた者は木村を含めて、川路聖謨(贈従四位)、岩瀬忠震(贈正五位)、池田長発(贈正五位)の4名だけである。「幕末の四舟」の1人に名を連ねることもある。(但し木村は、死後の日付での「贈位」ではなく、死去の日付での「叙位」である。)・・・
渡米の際、木村は咸臨丸の乗組員たちが西洋の軍人に対して見劣りがしないように、士分の者には加増、それ以外の者達にも相応の俸給を幕府に要望したが受け入れられなかったため、家財を処分して3千両の資金を捻出してこれに充てた。幕府からも渡航費用として5百両を下賜されたが、これには殆ど手を付けず、帰国後に返還している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E8%8A%A5%E8%88%9F
⇒「注7」で出てきた「講武所」、次回のオフ会「講演」で再登場するので頭の片隅にとどめておいてください。(太田)
「國初より今に至るまて」儒者を重用して「政機」に参与させないことは、むしろ「祖宗の遺訓」であると、1898(明治31)年の芥舟は解釈する。
だが、彼も指摘するように、松平定信執政の寛政以降においては、「國家の大議あるに當り、評定所一座に命し評議せしむる毎に、林家にも一應共議を下され、意見を問はる<る>事に成」っていた。
それでは、当時の「國家の大議」とは何か。
木村芥舟は言及しないが、徳川後期のこの時期に、対外政策の方針決定が争点の一つであったことは明らかである。
⇒確かに、そうであった可能性は高い、と私も思います。(太田)
殊に「政教一致」が理想とされる東アジアの儒学文化圏では、使節を賓客として迎え「賓礼」という秩序に則った接見と待遇、相応しい形式と内容をそなえた国書の交換、そして法則と典故に敵った漢詩の唱和こそが外交の中心であった。
したがって、その知識と能力をもった儒学者が、幕府の国内政治には直接与り得なかったとしても、対外政策と言う「國家の大議」決定には発言力をもち、重用されていたのである。
⇒ここは首をひねってしまいました。これでは、眞壁は、儒学者達は、(支那とは国交も接触もなかったところ、ロシアや欧米諸国との外交ではなく、)朝鮮通信使との「外交」においてのみ、発言力をもち、重用されていた、と言っているに等しいからです。
「」を付けたのは、1607年の1回目の朝鮮通信使(当時は、回答兼刷還使だった)以外は、外交交渉を基本的に伴わない儀礼的なものになった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
からです。(太田)
無論、政策決定にどれほど力を行使得たかどうかという点は、個々の事例に即して検討する必要がある。
だが、学界の最高峰の有識者である彼ら幕府儒者は、和漢古今の事柄に通暁していたがゆえに、じじつ外交政策決定の最前線にも立ち会っていた。
⇒矛盾する二つのセンテンスを続けられても、読まされる側は当惑するだけです。
とにもかくにも、眞壁による、「個々の事例に即し」た「検討」、を読ませていただきます、といったところですね。(太田)
幕府儒者ばかりでなく、この時期藩校で育成された広義の「儒吏」が、全国の藩政の政策形成過程に直接参与した例は、恐らく枚挙に遑がないであろう。」(14~16)
⇒「藩校で育成された広義の「儒吏」」は、「藩校で育成された者達の中には儒学者になる者達もいた」でなければならない、というのが私見です。その理由は、次回のオフ会「講演」に譲ります。(太田)
(続く)