太田述正コラム#9673(2018.2.28)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その13)>(2018.6.14公開)

 「幕政の政治権力構成の変化<であるが、>・・・将軍吉宗–御用取次側衆–老中列座–評定所一座(三奉行)という享保期の将軍専制的な権力構成から、続いて将軍家重の側近として権勢を揮い、寶<(宝)>暦から天明期の幕政の主導権を握った老中田沼意次の政権へ、その後を承けた行政機構を直接掌握する老中主導の松平定信政権へという展開である。
 そして、特に定信時代の政治形態では、主な特徴として、担当老中が交代で専断する月番制から、「衆議之上」で政策決定する閣議制への移行が知られている。・・・

⇒どんなトップダウンの家業組織でも、それが巨大化すれば、創業者のカリスマと能力を子孫たるトップ達が受け継ぐことは困難なこともあり、意思決定の官僚制化は避けられない(典拠省略)のであり、それが、徳川幕府でも生じた、ということです。
 但し、老中の月番制というワークシェアリング方式の廃止は、「『海国兵談』を著して国防の危機を説いた林子平らを処士横断の禁で処罰したり、田沼時代の蝦夷地開拓政策を放棄したり、寛政異学の禁、幕府の学問所である昌平坂学問所で正学以外を排除、蘭学を排除するなど、結果として幕府の海外に対する備えを怠らせることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
という、安全保障音痴の定信でさえ、四囲の情勢に鑑み、有事のことも考えなければならなくかった結果、衆知を結集できず、企画・執行の継続性も担保できないところの、月番制の廃止に踏み切らざるをえなかった、ということでしょう。
 そんな、定信が、1793年に、その前年に勃発していたフランス革命戦争の余波を受けて「海防<(!)>のために出張中」に老中首座を解任された(上掲)のは、皮肉です。(太田)

 番入り<(注30)>に際しては、・・・10年以上も・・・多勢の候補者を老中宅に一堂に集めた「男振・立居・振舞・言語・応対」による「見分け」<による「選考」>が<行われてきていた。>

 (注30)御番入り(ごばんいり)。「江戸時代、非役の小普請や部屋住みの旗本・御家人が選ばれて、小姓組・書院番・大番などの役職に任じられること。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E7%95%AA%E5%85%A5%E3%82%8A-503803
 小普請は、「無役の旗本,御家人のうち3000石以下の者が編入された組織。3000石以上の者は寄合(よりあい)に編成。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%99%AE%E8%AB%8B-65908#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
 小普請と寄合は、「100石につき2両の小普請金上納が通常の義務であったが,江戸城門・中川番所の警衛,駿府加番,御法事勤番,日光御門主差添,火事場見廻りなどを命ぜられることがあり,その場合は小普請金を免除された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%84%E5%90%88-146512#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2

 このような人選が続けば当然、人事に関して金銭授受が頻繁に行われたことは想像に難くなく、また旗本子弟の武芸鍛錬の意欲も萎靡<(注31)>せざるを得ないであろう。

 (注31)いび。「なえてしおれること。衰え、元気のなくなること。」
https://kotobank.jp/word/%E8%90%8E%E9%9D%A1-435561

⇒「萎靡」は直感的に読みや意味を推測できましたが、眞壁が、江戸時代の文書を「発掘」・駆使して研究を行い、この本を書いたことには敬意を表するものの、彼が、そのことを通じて身に着けたと思われるところの、難読・難解な漢語熟語を、しかも、旧字体のまま、説明文の中で多用しているのは、一般読者の負担を全く顧慮していないとしか思えず、呆れます。(太田)

 定信による改革は、かつての客観的な基準による公正な番人選考を復活させ、新たに試験制度である学問の吟味を任官の基礎審査に導入したことにある。」(91、95)

⇒(側用人の重用は側用人であった田沼意次自身の責任ではありませんが、)田沼政治と定信政治の経済政策や安全保障政策の比較を云々するまでもなく、幕臣達の研鑽意欲を削ぎ、番入りした者達の質を低下させたに違いない、「見分け」なる退嬰的なやり方を放置した一点だけで、前者は後者に遥かに劣る、と言うべきでしょう。
 徳川幕府は、田沼時代的なものが続いていたならば、18世紀中にも滅亡していた可能性すらあったのではないでしょうか。(太田)

(続く)