太田述正コラム#9679(2018.3.3)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その16)>(2019.6.17公開)
「定信ら改革政治の首脳陣・・・が官僚養成教育に第一に求めたものは、何よりもまず「忠孝」精神の涵養であった。
それは、一面では「御上」に忠勤を励む全人格的な複縦・従属性という意味で、徳川将軍家支配の政治体制に対する<政治的正統性>の無条件承認を促しているようでもある。
また同時に他面では、官吏自身の恣意的行動を抑制するために、<社会的適性化>の一要素でもある内的な倫理規範を要請しているとも考えられる。
このような背景に、相継ぐ天災や人為的な不祥事によって失墜した幕府の威光を立て直し、その内部秩序を維持するために、幕臣官僚の内なる行為規範体系を確立し、規律に対する彼らの服務能力を陶冶する必要があったことは疑えない。
⇒すぐ上で引用した部分は、最初の一文を除いて、全て、眞壁の主観であることが分かる文面になっていますが、主観にもそれなりの典拠が必要なのに、何も提示されていないのは残念です。
そのことは、断定されているところの、最初の一文についても、そこにも典拠が付されていないことと相まって、眞壁の主観であることを強く推測させるものです。
ただ、眞壁が、その中で、「官僚」養成教育、と書いているのは、当時の定信らの幕閣の念頭にあったものが、文武教育ではないこと・・理想的武士養成教育ではないこと・・、つまりは、文官たる官僚養成教育でしかないことを、彼が読み取っていることを、いみじくも意味しているのでしょう。
にもかかわらず、眞壁が、どうして、その(典型的諸藩校における教育・・次回オフ会での「講演」参照・・と比しての)「異常性」、と言って語弊があれば「異質性」、を直視し、そのことを掘り下げなかったのか、私には理解できません。(太田)
「栗山上書」における幕臣たちへの学問奨励の目的が、君臣・父子・夫婦兄弟・朋友・そして己自身に対する規範を受肉化させるため、経学の崇高性とそれを担保する「聖人」の教えの超越的な絶対性に縛られているという意識を個々人に薫染せしめる点にあること<が>確認<される。>
栗山はそれを、「城内」「番頭の宅」「昌平坂聖堂」における「講釋」による幕臣全体への啓発感化によって実現させようとしたのであった。
定信もまた、学問の目的を「五倫五常」としたが、さらに「君臣父子夫婦兄弟朋友」の「五倫」を「孝悌」に集約させ<(注33)>、「學校」によって「士を養ふの教化」を行おうとした(「政語」第一則)。
(注33)「孟子においては、秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親や年長者に対する親愛・敬愛を忘れないということが肝要であることを説き、このような心を「孝悌」と名づけた。そして、・・・「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」<・・父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信・・>の徳の実践が重要である<と>主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%80%AB
⇒眞壁は、『政語』中の孟子説そのままの部分しか引用していませんが、『政語』では、その「序文<に>、「先王の教」は儒者が担当する「下に在る」事柄になってしまったが、その下の儒者が是非を争論する状況は肯定されておらず、寧ろ上流の「源」であり、「萬民の師表」である「人君」を正すことによってその徳化を下に及ぼすとあり、ここから定信の<考え方>・・・は、何よりもまず為政者が「澄」み、正しく「聖人」が立てた「五倫の道」に従って天下を治めることによって初めて、「教」が人民に波及し、帰依するという<ものであった。>」
https://blogs.yahoo.co.jp/rontetu1945/27973287.html
という箇所こそ私見では重要であり、定信の発想は、将軍や(自分のような将軍家の一員が含まれる場合もある)幕閣が、自分達自身を律して儒教に言う君子となり、統治すれば、自ずから幕臣達は良い行政を行い、民も裨益する、というものであったということが分かります。
そんな定信が推進した、幕臣たる若者達の教育が、四書の素読的な、露骨に言えば、イエスマン官僚を養成する愚民教育に堕してしまったらしいことは、不思議でもなんでもなさそうですね。(太田)
(続く)