太田述正コラム#9681(2018.3.4)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その17)>(2018.6.18公開)
「<実際に行われた>官僚養成の学問の目的と方法は、学問の真理追究を目指して会読による学習を盛行した荻生徂徠やその門人たちとはまったく方向性が異なっていた。
闇齋学派<(注34)>にも多用された講釈は、教化対象に向けてある一つの解釈を一方的に講じ、座して黙する聴講者に批判や反論の機会を与えない。
(注34)崎門(きもん)学派とも。「山崎闇斎を祖とする朱子学の一派。崎門きもんの三傑といわれた浅見絅斎・佐藤直方・三宅尚斎のほかに、師の垂加神道説を受け継ぐ垂加派などがあるが、実践躬行きゆうこうを重んじたのが特色で、・・・水戸学派と並んで、・・・幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えた。」
https://kotobank.jp/word/%E9%97%87%E6%96%8E%E5%AD%A6%E6%B4%BE-429227
⇒私自身は、(次回オフ会「講演」でも触れますが、)山鹿流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E6%B5%81
の方が、闇斎学派や水戸学派に比較して、尊王攘夷思想により根源的な影響を与えた、と考えています。(太田)
他方で、教育方法として徂徠によって積極的に活用された会読は、各自の予習を前提として学友たちと一つのテクストを共に読み、経書の真の理解を目指して、席上激しく討論が交わされた。
そこでは、学問の真理の前での対等性が保証され、論争の判定者であった師さえ学生の意外な解釈に驚き学び、師友共なる切磋琢磨の共同作業が展開される。
ただし、・・・徂徠学派の末裔と「折衷学派<(注35)>」の学問・・・<の>ように、会読と討論による学習は、公同の真理探究の目的が見失われるならば、諸説を折衷して解釈の新規さを競うものとなり、時に根拠のない勝手な私見を開陳し、さらに昂じれば討論相手を駁撃し、その場限りの論争に打ち勝つことが自己目的化される。
(注35)「江戸中期の儒学の一派。古学・朱子学・陽明学のいずれにも偏せず先行学説の長所のみをとるという折衷的態度の学派。・・・儒学界の主潮流を占めた。その代表的な学説は,折衷学の提唱者である井上金峨(きんが)の《経義折衷》(1764),片山兼山の《山子垂統》(1775)などにうかがえる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%8A%98%E8%A1%B7%E5%AD%A6%E6%B4%BE-548341
「古学(こがく)は、朱子学を否定する江戸時代の儒教の一派。山鹿素行の聖学(これを特に古学(こかく)と言う)、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学の総称。
後世の解釈によらず、論語などの経典を直接実証的に研究する。その実証的な研究態度は国学などに影響を及ぼした。江戸中後期に流行し、越後長岡藩では藩校が建設された当初、古義学と古文辞学の両方が藩学となっていた。
他方、寛政異学の禁では「風俗を乱す」という理由で江戸幕府及びこれに倣う諸藩で公式の場での講義を禁止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%AD%A6
後の徂徠学派・「折衷学」派の批判者たちの眼には、むしろこの弊害が同時代の儒学界に色濃く映ったのであろう。
⇒ここでも、眞壁は、典拠抜きの想像でものを言っています。(太田)
踏むべき学習階梯と知的伝統の蓄積を飛び越えて、直ちに経書解釈の独自性を競うことは不可能である。
しかも、寛政期以降の講釈聴講者の多くは、学者志望者ではなく、現役幕臣や官僚候補生たちである。
彼らには実務上、狭隘な分野を専門知識を手に穿鑿することよりも、良識ある官僚として、万事についての博くかつ浅き理解が求められていたと思われる。」(102~103)
⇒ここにも、先ほどと同様の批判があてはまります。
ところで、眞壁自身、研究者であると共に教育者(大学の教官)でもあるわけですが、現在の大学生と世代的にはほぼ同じであったところの、幕臣達の教育が、「学者志望者」であろうとなかろうと、定信当時の一方通行方式で本当によい、と思っているはずがないと信じたいところです。
仮にそうだとすれば、眞壁は、もっと批判的な筆致でそれを紹介すべきでしょうね。(太田)
(続く)