太田述正コラム#0591(2005.1.11)
<奴隷制廃止物語(その1)>
1 始めに
19世紀末以来、われわれは基本的に奴隷制のない世界に暮らしていますが、それは1787年にイギリスで始まった奴隷制廃止運動の賜であることを忘れがちです。
今回は、この運動のために身を捧げた人々の物語をご紹介することにしました。
1787年の時点では、世界の人口の四分の三以上は奴隷であるか移動の自由のない奴隷的境遇に置かれていました。南北アメリカでは黒人奴隷が自由民の数を上回るところがありましたし、黒人奴隷はイスラム世界にも沢山いました。むろんアフリカではどこにも奴隷がいました。インドやアジアでは奴隷や債務で土地に縛り付けられた人々はざらでした。ロシアでは人口の過半が農奴でした。
とりわけ英国は奴隷制を最大限に活用することで繁栄を維持していました。
独立を果たしていた旧英領北米植民地の黒人奴隷を除いても、英国の海外植民地には50万人の黒人奴隷がおり、主としてカリブ海の西インド諸島でサトウキビの栽培に従事していました。当時の砂糖の重要性は今日の石油に匹敵します。イギリス国教会でさえバルバドス島で巨大サトウキビ・プランテーションを経営していました(注1)。
(注1)カトリック教会もまた奴隷制を是認していた。すなわち教会は奴隷を保有でき、奴隷を解放することを基本的に禁じられ、かつ聖職者に奴隷を任命することは認められていなかった。(http://www.animallaw.info/journals/jo_pdf/lralvol_7p75.pdf。1月9日アクセス)
また、奴隷貿易に従事している船は、イギリス船籍のものが大部分を占めており、イギリスの植民地や旧北米植民地だけでなく、フランス・オランダ・スペイン・ポルトガルの植民地にもアフリカから黒人奴隷を大量に供給していました(注2)。
(注2)カリブ海のサトウキビ・プランテーションにおける奴隷は、労働の過酷さ・熱帯性疾病の猖獗・奴隷の「再生産」より輸入の方が安かったことから劣悪な食事しか提供されなかった等があいまって、減耗率が毎年3%弱と南北アメリカ中最も高く、1660年からイギリスが奴隷貿易を禁止した1807年までの間に、カリブ海の英領植民地に送られた奴隷の数は、南北アメリカその他の植民地に送られた奴隷の数の3倍にものぼる。
このような状況からすれば、全イギリス植民地における奴隷制の廃止など、夢のまた夢であったというべきでしょう。
そのイギリスで奴隷制廃止運動が始まったこと自体が驚異ですが、運動が始まってからわずか半世紀後、この運動の創始者がまだ存命中の1838年にこの運動は成就し、世界各地の80万人以上の黒人奴隷が解放される、という人類史を飾る一大慶事が起きるのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/2005/01/09/books/review/09COVERRO.html?pagewanted=print&position=http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?pid=1190、及びhttp://search.barnesandnoble.com/booksearch/isbnInquiry.asp?endeca=1&isbn=0618104690&itm=5(いずれも1月9日アクセス)による。)
2 奴隷制廃止運動前史
(1)マンスフィールド判決
奴隷制廃止の歴史は、イギリス本国で1772年に判決によって奴隷制が禁じられたことに始まります。マンスフィールド判決(Mansfield judgment)です。
イギリス本国に植民地の奴隷を持ち込む人々がいたため、本国内でも奴隷の売買が公然と行われ、奴隷の数は1764年にはロンドンだけでも2万人以上に達していました。
1769年に北米植民地のバージニア州の住民が自分の奴隷一人を伴って本国に戻ったのですが、1771年にその奴隷が逃亡し、つかまえたその奴隷をジャマイカ行きのイギリス船に閉じこめました。ジャマイカで売ろうとしたのです。これを知ったイギリス人がこの奴隷の人身保護令状を求めるとともに、コモンロー裁判所(King’s Bench)にこの奴隷の解放を求めて訴えを起こしたのです。
裁判の過程で裁判官のマンスフィールドは、「たとえ天が落下しようと、正義は行われなければならない」と述べた上、1772年、奴隷制は嫌悪すべきものであり、コモンロー上の先例か法律がない限り認めることはできないが、かかる先例も法律もイギリスには存在しない以上、この黒人は釈放されなければならない、と判決したのです。
これは、奴隷がイギリス本国に足を踏み入れた瞬間に自由になる、ということを意味しました。
(続く)