太田述正コラム#9711(2018.3.19)
<竹村公太郎の赤穂事件論(その6)>(2018.7.3公開)
5 義士達の泉岳寺埋葬は破天荒
「当時、四十七士は間違いなく重大な犯罪者たちであった。
その犯罪者が埋葬された寺が、家康が創建した寺であったという。
そのようなことは、信じられない。・・・
家康が葬られている寺や、家康に縁のある寺は数多い。
出身地の岡崎や駿府には、家康が創建した寺がある。
しかし、この江戸市内に、家康が創建した寺など他にあるのだろうか。」(172、174頁)
私が、思わず椅子からずり落ちそうになった、トンデモ記述です。↑
四十七士の主君の浅野長矩も切腹になった「重大な犯罪者」のはずであるところ、彼は、討ち入りのずっと前から泉岳寺に埋葬されていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E5%B2%B3%E5%AF%BA
わけですが、竹村は、自分で何を書いているのか分かっているのでしょうか。
ちなみに、長矩がここに埋葬された理由は下掲の通りです。↓
「泉岳寺は、慶長17年(1612年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(1546年~1621年)を迎えて開山となしました。宗関和尚は・・・今川義元の孫と云われる人物で<す。>・・・
寛永18年(1641年)の大火によって伽藍が焼失、三代将軍家光(1604年~1651年)の命により現在の高輪の地に移転再建されました(一説に移転は正保年間〈1644年~1648年〉とも)。
この移転に際しては、毛利・浅野<(赤穂藩主浅野家の本家の広島藩主浅野家(太田))>・朽木・丹羽・水谷(みずのや)の五大名が尽力して完成したその因縁により、爾後この五大名が共に檀越となり外護の任に当っています。」
http://www.sengakuji.or.jp/about_sengakuji/history.html
その縁で、赤穂藩主浅野家の菩提寺となった。
http://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/sengakuji/
(ちょっと想像を絶するのですが、)どうも、斬首と切腹の違いすら、竹村は分かっていないのではないでしょうか。
幕末の例で言えば、大河の「西郷どん」に登場した赤山靱負(切腹)だって、本家の領地の(恐らく)日置島津家の墓地に、最初から墓があります。(注3)
(注3)「赤山靱負は1823年に日置島津家の当主 島津久風(ひさかぜ)の子として産まれます。・・・赤山靱負は5人兄弟の長男なのですが、側室の子であったので、日置島津家を継げず、赤山家へと養子に出されました。・・・赤山家も名門であり・・・赤山靱負はお由羅騒動の責任を問われて[1850年に]切腹・・・赤山靱負の墓は、島津日置家の領地だった日置市日吉町日置の桂山寺跡に存在しています。」
https://hajimete-sangokushi.com/2018/01/28/%E8%B5%A4%E5%B1%B1%E9%9D%B1%E8%B2%A0/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B1%B1%E9%9D%AD%E8%B2%A0 ([]内)
他方、吉田松陰(斬首)の場合は、文字通りの「重大な犯罪者」であったことから、無墓状態から正式な墓が定まるまで、大変な紆余曲折を経ています。
https://www.junk-word.com/taiga-drama/hanamoyu/002455.html
次に、竹村の、「江戸市内に、家康が創建した寺など他にあるのだろうか」との自問ですが、「本書を仕上げるため、・・・インターネットを使って・・・作業をし・・・た」(182頁)と胸を張っているにも関わらず、掛け声だけだったということでしょうか、彼は、霊山寺(注4)を見落としています。
(注4)「浄土宗寺院の霊山寺は、・・・、徳川家康の依頼を受けた・・・専譽上人大超和尚が駿河台に慶長6年(1601)創建、明暦の大火で類焼し浅草へ移転、貞享3年(1686)光蓮社明譽遊安廓榮和尚の代に関東十八檀林の一つに列して中興、元禄2年(1689)に現在<の(墨田区)横川>へ移転したといいます。」
https://tesshow.jp/sumida/temple_yokogawa_reizan.html
家康自身が創建した寺と創建を依頼した寺とは違う、ということなのかもしれませんが、「山門には大きく徳川家の葵の御紋が入ってい<る>」
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1066459-d11500589-r453889306-Ryozen_ji_Temple-Sumida_Tokyo_Tokyo_Prefecture_Kanto.html
らしいので、竹村は、霊山寺に、少なくとも、何らかの言及をすべきでした。
6 東海道の大木戸の移転は泉岳寺参りをさせるため
「大木戸が泉岳寺の直近の「高輪」にあれば、江戸に入る旅人は、大木戸<(注5)>の手前で滞留する。
(注5)「大木戸(おおきど)は、江戸時代に、街道上の江戸内外の境界に設置された簡易な関所である。・・・主な大木戸<に、>・・・高輪大木戸・・・四谷大木戸・・・板橋大木戸<がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%88%B8
「東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として・・・大木戸<が>・・・設けられた・・・。木戸は始め、1616年(元和2年)に芝口門が建てられ、高札場が置かれ札の辻に設けられたが、700メートル南の同所に移転し高札場として大木戸が設けられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%BC%AA%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%88%B8%E8%B7%A1
江戸から出る旅人も、高輪<の>大木戸を抜け、品川宿が視線に入ればホッとして歩を緩める。
人々が滞留し、歩を緩める場所、その場所に、泉岳寺の総門が扉を開いているのだ。
それはまるで泉岳寺に入れ、といわんばかりであった。」(184頁)
ここも、前述したように、私がこの界隈の「地形」に通暁していることもあり、激しく首を傾げました。
こういうことを主張する場合は、甲州街道・・その、当時の内藤新宿付近に私の最初の官舎があったので、私は、旧街道沿いの江戸内外の「地形」にも通じています・・「から江戸府内の入口として」の四谷大木戸、及び、中山道から「江戸府内の入り口として」の板橋大木戸、は、移転されたものではなかったのか等を比較検証する必要があるところ、竹村がそれを行った形跡がないからです。
例えば、四谷大木戸は移転してきたものではありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%B0%B7%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%88%B8
鍵は、「江戸府内」、すなわち、江戸の範囲・・町地については、江戸の町奉行所の管轄になる・・、にあります。
「江戸の範囲<、すなわち、>・・・朱引の範囲(大江戸)は、「四里四方」といわれ、東は平井、亀戸周辺、西は代々木、角筈周辺、南は品川周辺、北は千住・板橋周辺までである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%BC%95
というのですから、甲州街道においては、江戸市街地の事実上の拡大がなかったので、そこでの大木戸は、最初に設置された位置のままで移転されなかったわけです。
恐らく、板橋大木戸・・この界隈についても、エジプトから帰国後、母親としばらく母親の長姉の家にやっかいになっていたので若干は界隈の「地形」に通じています・・についてもそうだったはずです。
他方、東海道においては、「1713年(正徳3年) <に、>荏原郡下高輪村が町奉行支配となり荏原郡より離脱し、新たに高輪北町・高輪中町・高輪南町・高輪北横町・高輪台町・高輪小台町が起立される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%BC%AA
という次第で、江戸市街地の事実上の拡大に伴い、「江戸府内」が拡大されたため、大木戸が高輪へと移転したわけです。
(どうして、東海道でだけ、顕著な江戸市街地の事実上の拡大があったらしいのか、には立ち入りませんが、想像はつくと思います。)
大木戸のこの移転を、泉岳寺への四十七士の埋葬と結びつけるなど、牽強付会も極まれり、といったところです。
(完)