太田述正コラム#0598(2005.1.18)
<ハーバート・フーバー(その2)>
4 閣僚・大統領時代のフーバー
1920年にウィルソンを破って大統領となったハーディング(Warren G. Harding。1865??1923年)は、フーバーに内務長官か商務長官への就任を要請し、フーバーは商務長官を選びます。1923年にハーディング死去に伴い副大統領から大統領に昇格したクーリッジ(Calvin Coolidge。1872??1933年)の下でもフーバーは商務長官を続けます(注4)。
(注4)もともとフーバーは共和党員だったが、民主党のウィルソンに、次いで共和党のハーディング、クーリッジと三代の大統領に重用された、ということからもフーバーの人柄と能力が推し量れる。
商務長官時代のフーバーは広範多岐にわたった商務行政のために無尽蔵とも言えるアイディアを出し、八面六臂の活躍をするのですが、それに加えて所掌を離れ、青少年の保健・衛生・栄養状態の改善のための団体を設立するとともに、南部諸州の住民の健康状態の改善に努め、米国赤十字への募金活動に尽力します。
ハーディングが1928年の大統領選挙に立候補しない旨表明すると、共和党の大統領候補としてフーバーを擁立せよという声が全米から澎湃と沸き上がったのは当然のことでした。
フーバーは人見知りで演説下手でしたが、候補に指名されると、圧倒的な得票率の差で民主党候補を破って第31代大統領に就任します。
就任したフーバーがかねてから心配していたことは、投機的な株式投資によって株価の異常な上昇が続いていたことでした。
フーバーは主要な銀行家に株式投機資金の貸し付けを自粛するように働きかけますが彼らは聞く耳を持たず、他方でニューヨーク証券取引所を所管しているニューヨーク州のフランクリン・ローズベルト(Franklin D. Roosevelt。1882??1945年)知事には証券取引所に対する投機規制の強化を要求しますが、州知事になるまでのニューヨークの法律事務所の弁護士時代に、自ら株式投機の仕手筋として暗躍していたローズベルトはこの要請を一蹴します。
フーバーの懸念は的中し、就任7ヶ月目に株の大暴落が起き、経済恐慌が始まってしまいます。
フーバーは次々に適切な対策を講じ(注5)たため、1930年の春にはNYタイムスが「大統領としてこれ以上はない仕事をした」と彼を褒め称えたほどであり、1931年には経済は上向きに転じるのですが、今度は欧州で恐慌が起き、これが米国にはねかえり、再び恐慌が深刻化します。
(注5)大統領としてのフーバーの唯一の失政は、ホーリー・スムート法(Hawley-Smoot Tariff bil)に署名したことだ。この法律によって農産品を中心として関税が引き上げられ、ために世界の貿易が縮小し、恐慌が世界に輸出される結果となり、これが回り回って米国の経済回復の足を引っ張った。
1932年は大統領選挙の年でしたが、この年、米国経済はどん底に落ち込んでおり、失業者が1200万人、生活扶助を受けていた人が1800万人という有様でした。
フーバーの不人気を決定的にしたのが、この年の夏に起きた事件です。
6万人の退役軍人達(Bonus Marchers)が恩給の前倒し支給を求めて家族と共にワシントンに結集したのです。
軍人恩給費は当時の連邦予算の25%も占めており、更に前倒し支給を求めるというのは無理な注文でしたが、フーバーは彼らのことを慮ってテント・寝台・食糧・医薬品を提供します。上院がこの退役軍人達の要求を否決すると、フーバーが旅費を支給したこともあって大部分はおとなしく帰郷したのですが、その多くが共産党員であるところの先鋭的な1万人が残り、暴徒化します。
各方面から促され、しぶしぶフーバーは軍隊の出動を、二年前に史上最年少で米陸軍参謀総長に就任していたマッカーサー(Douglas MacArthur。1880??1964年)に命じます。マッカーサーはフーバーの意向に逆らって、騎兵・戦車・銃剣を持った兵を投入し、兵士達をして退役軍人達を家族の女性や子供達も含めて棍棒で叩かせ、彼らに催涙ガスを浴びせさせ、彼らのテントを燃やさせ、強制的にポトマック河の向こう岸に追い払わせたのです。
この事件を知ったローズベルトは、友人にニヤニヤして話しかけ、「おい君、これでオレの当選は決まりだな」と言ったと伝えられています。
このようにして、大統領選挙でフーバーは民主党候補のローズベルトに敗れたのでした。
(続く)