太田述正コラム#9725(2018.3.26)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その28)>(2018.7.10公開)

 「(イ)国土防衛<・・儒者が全く登場しない(太田)・・>・・・
 (ロ)漂流民送還–・・・18世紀の環東シナ海諸地域間には「漂流民送還体制」(荒野泰典)の確立が指摘されている。
 徳川日本では異国船が漂着した場合には、長崎に護送することが定められていた(寛永17年)。・・・
 清朝・朝鮮・琉球・日本の間での・・・漂着・・・の多くに筆談能力をもつ応対者として儒者が関与したことも確認されている。・・・

⇒単に、儒者が、筆談用通訳として「関与」しただけでしょう。(太田)

 (ハ)通信(聘礼受容)–聘礼・・・<なる>儀礼の内実は、使節の接見、漢文国書交換、七五三膳<(注55)>の饗應、漢詩唱和にあった。

 (注55)「三献(さんこん)の膳で、本膳に七菜、二の膳に五菜、三の膳に三菜を出す盛宴。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%83%E4%BA%94%E4%B8%89%E3%81%AE%E8%86%B3-520785
 「《「さんごん」とも》・・・平安時代から見られるが、次第に様式がととのえられ<たところの>、中世以降の酒宴の礼法。一献・二献・三献と酒肴(しゅこう)の膳を三度変え、そのたびに大・中・小の杯で1杯ずつ繰り返し、9杯の酒をすすめるもの。・・・式三献ともいう。・・・こんにち神前式や仏前式の婚礼で行う三三九度はこれをひき継いだものとされる。また、主に初献の肴として雑煮を用いたが、正月の祝い膳に雑煮を用いるのはこの名残とされる。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E7%8C%AE-513422#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

 外国使節に対する秩序に則った接見と待遇、相応しい形式と内容をそなえた国書の交換、そして法則と典故に敵った漢詩の唱和など、和漢古今の事柄に通暁し、東アジア儒学文化について幅広い知識教養と漢詩文作成能力を兼ね備えた儒学者もしくは僧侶がつねに外交の担い手であったのである。・・・

⇒これも、儒者が、通訳と儀典を担当したというだけのことでしょう。
 (なお、「僧侶」が登場する理由は後出。)(太田)

 琉球からの使節訪問は、正徳期<(1711~16年(太田))>までは、朝貢のように異国として意図的な演出がなされていたことも知られている。
 (ニ)通商–・・・交易相手はいずれも商人(唐商・オランダ東インド会社)であり、政府を介した国交が結ばれていたわけではない。
 したがってこの時期、国家同士の外交は、聘礼を受ける通信国との間にのみ成立していたといえる。

⇒通信と言っても、琉球とのそれは、猿芝居であり、正徳期からは、それまでのは猿芝居でした、ということまで、幕府は事実上認めてしまっているわけであり、結局のところ、儒者がまともな意味で関与したのは、朝鮮通信使の接遇だけであるところ、それすらも、通訳と儀典面での「関与」だけであった、のですから、何をかいわんやです。
 折角、眞壁は、膨大な新史料群を「発掘」し、整理した上で紹介しているにもかかわらず、昌平坂学問所の儒者達が幕府の外交政策に携わった、という、(この本を、まだ読み終わっていないので断定は本来控えるべきですが、)自身の新しい(珍奇な?)主張を裏付けるべく、これらの史料群を十分活用せず、ややもすれば、既存の史料群を歪曲的につまみ食いして、無理筋の論理を展開している、という印象を受けます。(太田)

 幕府儒者の外交参与には、徳川初期には、五山<(注56)>の僧から外交担当を引き継いだ林羅山(1583~1657年)による外交文書作成がある。

 (注56)「もとは南宋の寧宗がインドの5精舎10塔所(天竺五精舎)の故事に倣って・・・5寺を「五山」として保護を与えたのが由来と言われている。鎌倉時代後期には日本にも禅宗の普及に伴って広まるようになり・・・主に臨済宗<において、>上位より、五山・十刹・諸山・林下に区分された。・・・<室町時代に、>京都五山と鎌倉五山<が>・・・固定<され、>・・・[両五山の上に別格として南禅寺を置]<かれ、>現在に至っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B1%B1
 「五山僧は<支那>文化に通じ、・・・義満が日明貿易(勘合貿易)を行う際には外交顧問的役割も果たした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%BA%94%E5%B1%B1 ([]内も)

 彼は、天台宗の天海(1536?~1643)<(注57)(コラム#9667)>・臨済宗の以心崇傳(金地院崇傳、1569~1633)<(注58)>と共に徳川初期の政治に参与していたが、・・・このような幕府儒者の外交における役割を、昌平坂学問所に関わる林家や儒者たちも担当することになっていく。」(148~151)

 (注57)「<出自に定説なし。>元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を・・・天海らに託す。家康死後には神号を巡り以心崇伝・・・らと争う。天海は「権現」として[崇伝も初耳の]自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、[家康の遺言<である>と偽証<しつつ、>]天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を[吉田神道主導で・・・埋葬された]久能山から日光山に改葬した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7
 (注58)「室町幕府幕臣の一色秀勝の次男として京都に生まれた。・・・
 徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、その権勢から黒衣の宰相の異名を取った。・・・
 死後、一人で担っていた権能は分割され、寺社関係は寺社奉行を新設、外交関係は老中、長崎奉行が管掌、文教外交関係は林家が引き継いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E5%BF%83%E5%B4%87%E4%BC%9D (「註55」の[]内も)

⇒徳川初期に、五山の僧の伝統に則り、仏僧達が家康の補佐役となったものの、その役割の一部を儒者や林家がどうして引き継ぐことになったのか、について、説明が欲しかったところです。
 それにしても、少なくとも、徳川初期には、生臭坊主臭ふんぷんの天海によるそれは噴飯ものとはいえ、神仏習合が行きつくところまで行っていた観がありますね。(太田)

(続く)