太田述正コラム#0081(2002.12.3)
<反産業主義(アングロサクソン論4)>

(1989年に書いたメモに、若干手を加えました。)

1 個人的体験
 1988年に家内とイギリスに渡航した早々、新聞を購読しようと思い、ザ・タイムス社に電話をかけたところ、近くの新聞販売店(News Agent)を捜して、そこで契約してくれと言われました。うちの近くの販売店はどこかと聞くと、自分で調べてくれといって、とりつく島がありません。新聞販売店らしい店に行ってみると、日本とは異なって、一社の専売店ではなく、何社もの新聞が置いてあるのです。イギリスの新聞社は、余りマーケティングに力を入れていないな、とそのとき感じました。
 学校のイギリス人のクラスメートに話を聞いてみると、新聞販売店から毎日新聞を届けてもらう方が、自分でスタンドでその都度新聞を買うより、はるかに高くつくというのです。しかも、届けてくれる時間が不規則なので、自分は毎日出勤時に新聞を買っているということでした。
 結局、うちでは家内が自分の出勤時に新聞を買う役を引き受けることとなり、私は日中は学校備えつけの新聞で我慢することにしました。
そのおかげで、いろんな新聞を読みくらべることができました。最初こそ、ザ・タイムスを買ってみましたが、オーストラリアの新聞王マードック氏に買収されて以来、質が低下したという話はどうやら本当のようで、日本関係の記事の事実の誤りの多さに嫌気がさし、インテリの間で人気急上昇という、インデペンデント紙にきりかえました。そのうち、事実の誤りは少ないものの、同紙の日本関係の記事にみられるイギリス的「偏見」に、にわかナショナリストとなったわれわれ二人が反発し、最終的には経済紙のファイナンシャルタイムスに落ち着きました。
 話を元に戻しましょう。
 次に類似の経験をしたのは、写真のフィルムの現像、焼付けの際です。まず、フィルム何本かの現像、焼付けをした後、焼き増しをしたい写真を選び、同じ店にネガを持って行ったのです。ところが、料金を聞いてみると、5ー6枚も焼き増しを頼んだ場合、36枚全部の焼き増しをするよりも高くつくというではありませんか。
 このとき、家内が指摘したのは、イギリス経済は原価計算指向であって、消費者指向ではないのではないかということです。たしかに、以上の二例とも、コストがよりかかれば料金が高くなるという、原価計算の観点からは、まことに合理的な話で、ケチのつけようがありません。

2 反産業主義
 産業革命を自力で、初めて成し遂げたイギリスの、このおおらかな殿様商売ぶりはいったいどうしたことでしょう。
調べてみると、その根は相当深そうです。

アントワープからイギリスにやってきた、ある歴史学者は、16世紀末に、次のように言っています。
「[イギリスの] 人々は、オランダ人やフランス人のように、勤勉で刻苦精励するということがなく、スペイン人のような不精な生活を送るのを常としている。・・彼らは怠惰な召使をたくさんかかえている。そして、土地を耕すといったことよりは、野生動物を多数、自分の楽しみのために飼うといったことの方を好む。・・妻達は・・市場へ出かけては、一番食べたいと思ったものを買ってくる。彼女達はよい身なりをしており、物を思い煩うようなことはなく、家事や面倒なことは召使にやらせる。戸口の前にいい着物を身につけて座っては、通行人を眺めやり、また通行人に眺められようとする。・・まこと、イギリスが結婚した女性の天国と言われているのもむべなるかなである。」 (K. M. D. Haley, The British and the Dutch, George Philip 1988 より)
 近代社会科学の祖、ホッブスは、17世紀後半、早くもブルジョア倫理に対して激しい嫌悪の情を示します。
 「市民や市場のある町の住民達は、一般的にどういう連中であるかというと、小商人や職工達はもうけ主義の悪徳に染まっており、ごまかし、ウソ、だまし、偽善及びその他のもろもろの無慈悲さ[は日常茶飯事である。]また、[大商人達は、]売買をうまくやり、また、貧しい人々の労働力を、自分達の言い値で買いたたき、途方もなく金持ちになることだけをおのれの栄光と考えている。」(「ビヒモス」(1668年)。C. P. Macphersonn, Introduction, Hobbes Leviathan, Penguin Book Ltd 1968)より)
産業革命が始まった18世紀以降はどうでしょうか。
 まず、上流階層の方ですが、エドマンド・バークもマルサスも、立場こそ違いますが、それぞれ大いに土地所有者階層の不生産的消費を奨励したことは、よく知られているところです。(水田洋 世界の名著第41卷解説参照)
 そして、オックスフォードのピーター・マシアス教授は、´The First Industrial Nation`の中で、「土地所有階層に広くみられる精神は、オックスフォードやケンブリッジのほか、イートンのような学校で[学生に対して]繰り返したたきこまれた。・・この精神は、実業界で成功するためにはむしろじゃまになるものだった。というのは、人生の目的[はカネもうけではなく、] 余暇を味わい、大いに消費生活を楽しむことにあるという精神であったからである。」(2nd edition, Methuen & Co. Ltd 1983)と指摘しています。
 一方、社会の底辺に位置していた、労働者階層はどうだったでしょうか。彼らは彼らで、かつての農業労働者やギルド職員であった頃の「反勤勉」精神を持ち続けていたと思われます。
 「労働者階層は産業家階層が大嫌いであり、カネを貯めたり、一生懸命働く人間を好まない。彼らはかせいだはしから酒につぎ込んだり、ありガネをはたいて[大きな買物を]するといった風に、いま現在の楽しみの追求を最優先する。カネ儲けの唯一の正当な方法と言えば、クジ、博打で稼ぐことである」(Jilly Cooper, Class, Transworld Publishers 1980(以下、「階級」と略称))というのは現在の労働者階層の話ですが、昔もそれほど変わりますまい。
 上下にこのような階層にはさまれていていたのですから、イギリスの産業主義社会への転換の担い手たりえた新興産業家階層には、同情の念を禁じ得ません。新興産業家階層の「洗脳」がどのように行われたかを見てみましょう。
 「野心的な商人や産業家達は仕事の虫だったが、彼らの子供は、いったんパブリックスクールへ行き、さらにオックスフォードやケンブリッジに行って、上流階層(=土地所有者階層(太田注))の子弟とあい交わり、カントリーハウス生活(たぶん、あらゆる生活スタイルのうち、もっともこ惑的なもの)の信奉者になってしまうと、怠惰であることを最高のステータスシンボルとしてありがたがるようになる。貴族の貴族たるゆえんは、生活のために働く必要がないところにあるからである。・・だからこそ、アマチュアリズムが理想化されるのだし、カネはビジネスに再投資されるより、家とか馬とか美術品などに費やされがちなのだ。また、だからこそ、商売なんぞはいみ嫌われるのだ・・パブリックスクールは教育の場というよりは、強靭な人格、リーダーシップや独立精神といったものをたたきこむ場に他ならなかった。」(「階級」)
 19世紀に入りますと、このような前産業社会的な精神・・反産業主義とでも呼びましょうか・・を擁護する論陣を張らない著名人を捜す方がむつかしくなってきます。
 あのガンジーにも深い影響を与えたジョン・ラスキンは、次のように述べています。
 「いわゆる自由専門職についている有能な人々が、どういうわけか、商業会社の社長以上に世人の尊敬をうけているとすれば、その理由はかれらの精神的 能力の比較よりはもっと深いところになければならないのである。そしてこのようなえこひいきのおもな理由は、商人がつねに利己的に行動するものと考えられているという事実にあることがわかるであろう。」(「この最後の者にも」(中央公論社版))
また、J.S.ミルは、イギリスは、将来、停滞的な社会になるであろうと予測し、「何ものも貧乏でなく、金持ちになろうとも思わず、前へ進もうとする他人の努力で押しのけられる心配もない社会は、人間性にとって最善の状態である。」と言っています。(関 嘉彦 世界の名著第38卷解説参照)
 労働者階層の方も負けてはいません。「それは・・搾取[を唱える]マルクス主義で増幅された。せっせと働くのはバカげたことだ。富はすでに存在するのだ。それを手に入れればいいので、生産することはないと言うわけである。」(ピーター・ワイルズ「英国病ソ連病日本病」新評論 1979年)
1883年にイギリス労働党の前身ともいうべき独立労働党が結成されますが、その綱領に掲げられた経済政策の第一が賃上げではなく、立法による8時間労働制の実現であり、それに続いて、残業労働などの廃止であったことは、まことに興味深いではありませんか。
 労働党の創始者、ケア・ハーディが、1895年の総選挙に立候補した際、「私は何としてでも当選させてもらいたいなどとは望んでいない。田舎の家庭で小鳥や草花とともに、子供たちに囲まれてくらしたい。」と述べたと伝えられていること(「ケア・ハーディ」より)も、以上のような文脈に照らせば、よく分かるのではないでしょうか。
20世紀に入っても、事情は少しも変わりません。
あの資本主義再生の旗手たるケインズも、「利潤動機の大いなる友人であるとは言えなかった。彼は、[資本主義社会では当然である、]あくなきカネの追求が気に入らず、そういったものを伴わない経済体制の出現を待ち望むようになった」といいます。(M.J.Wiener, English Culture and the Decline of the Industrial Spirit 1850-1980, Penguin Books 1981 (邦訳あり。以下、「産業精神」と略称))

 いずれ詳しくご説明するつもりですが、イギリスはその歴史始まって以来、(すべての成人が、生産財、消費財のいかんを問わず、自由に財産を処分できるという意味で)資本主義社会であり、産業革命前に既にその「反産業主義的」資本主義は、高度に成熟した段階に達していました。
 そして、(これについてもいずれ詳細にご説明するつもりですが、)イギリスは反産業主義(反勤勉主義)であったからこそ、(機械化によって楽をしようとして)産業革命を世界で初めてなしとげます。そして、イギリスは良かれ悪しかれ、反産業主義のまま現在に至っているのです。(「産業精神」参照)

3 英帝国の官僚と反産業主義
 古い本ですが、池田清さんの「自由と規律」(岩波新書)を読んで、感激した経験をお持ちの年輩の方は少なくないことと思います。
英国が、世界の四分の一にも及ぶ大帝国を形成し、20世紀の半ばまでこれを維持できた最大の秘密は、優秀で高いモラルを持った官僚の存在にありますが、パブリックスクールのジェントルマン教育、すなわち反産業主義教育の精華こそイギリス官僚であったと言ってよいでしょう。
1857年のセポイの反乱を契機に、英国は、東インド会社による支配に代えて、インドの直接統治に乗り出し、本国の官僚登用試験とは別に、インド官僚志望者向けの登用試験を始めます。この試験は、後には、インド人にも門戸が開かれましたが、結局、最後まで、イギリス人が圧倒的多数を占めました。言うまでもなく、その大部分はパブリックスクール出身者でした。
 「産業主義」の中に出てくる、貧しい牧師を父に持つ、パブリックスクール在学中の、フレデリック・ルガードというインド官僚志望の苦学生が、妹にあてた手紙をご紹介し、本稿を終えることにしましょう。
「[学校をやめて、事業を手伝わないかといういい話がきているのですが、] もし、この話に乗ってしまえば、インド官僚登用試験を受けることはかなわなくなり、ジェントルマンにとって、まことにふさわしい職業ということはあえて言わないとしても、とにかく、すばらしい職業につくチャンスを逸することになってしまいます。僕が、砂糖工場のアシスタントをやっている姿など、およそ想像したくもありません。もちろん、「ジェントルマンは、どこにいようとジェントルマンであることに変わりはない」ということが分からないわけではありません。しかし、ルガード家の人々は、陸軍や教会に職を奉じ、神や女王陛下の忠実なしもべであったことはあっても、商売人であったことは少ないことを、君はよく知っているはずです。」
(このルガードのような青年の前途に待ち受けていた過酷な生涯については、コラム#27、そしてパブリックスクールについては、コラム#13を参照してください。なお、私の大方のコラムのテーマはアングロサクソン論だと言ってもよいくらいなのですが、アングロサクソン論の1と2はそれぞれコラム#46と#54を、更にアングロサクソンの定義等については#74をご覧ください。)

<質問>
一読者です。

 12月3日に配信された「反産業主義(アングロサクソン論)ですが、実に興味深く拝見しました。通説とは違って、イギリスに産業革命が起こったのはイギリス人が勤勉ではなかったため、という指摘、とても刺激的でした。
 それで、もう何年もホコリをかぶっていたアルフレッド・マーシャルの『経済学原理』(岩波ブックセンター)のページをめくってみました。第1巻の付録に、イギリス人がなぜ資本主義を作り上げたか、文明史的なタイム・スパンをとってマーシャルが検討しています。彼によると、イギリスの気候、チュートン人の性格、政治的自由がイギリス人をして「企業家精神」の持ち主にした、とありました。そして、この企業家精神を、実業家はもちろんのこと、植民地支配に向かった統治者たちも共有していたのだ、ということです。
 
 太田さんのメールに、イギリスの大帝国の建設・維持は「優秀で高いモラルを持った官僚の存在にある」という指摘がありました。これを私は、マーシャルの説明とあわせて、官僚たちが企業家精神を果敢に発揮したのだ、と解釈したのですが、これでいいでしょうか。

<回答>
 お答えするためには、アングロサクソン論全体を展開する必要があるので、ここでは、断片的なお答えにとどめます。

 拙著「防衛庁再生宣言の」の中でも書いたように、軍国主義が軍隊を弱くするのと同様、営利主義(産業主義)では資本主義は機能しないものなのです。(蛇足ながら、マックス・ヴェーバーは、後者を指摘しつつも、プロテスタンティズムを持ち出すことで、世界中の人々を誤解に陥れました。)この反軍国主義と反産業主義が、今日のアングロサクソンの軍事的・経済的隆盛をもたらしたのだと私は考えています。
 どこから、反軍国主義と反産業主義が出てきたのか。それは、アングロサクソンの生業が戦争、すなわち戦利品等の獲得、であったからだというのが私の持論です。戦争というハイリスクハイリターンの集団的な営みが生業であったのですから、コストエフェクティブな戦い方をしなければならない(=経験論的合理主義)、戦争時の指導者は能力本意で選ばなければならない(=議会制)、人間いつも緊張はしておられないので「平時」には、戦争のための訓練を行う時を除き、指導者にはお引き取りいただき(=自由主義・立憲主義)、徹底的に怠惰に(=反産業主義)しかもバラバラに(=個人主義)過ごしてバランスをとらなければならない、等々ということになります。
 マーシャルの「経済学原理」は読んでおりませんが、マーシャルの言う「企業家精神」を「アングロサクソン精神」と読み替えれば、「アングロサクソンの精神」は、「チュートン人の性格」ならぬ「ゲルマン人の精神」が、「イギリスの気候」ならぬ「イギリスの豊かで安全な環境」にあって純粋性を保ち得た賜だ、ということになろうかと思います。

<再質問>
先ほど投稿した一読者です。

 さっそくのコメント、ありがとうございました。
 それで、またまた実に面白い指摘がありました。

 ウェーバーの説が、世界に誤解を撒き散らした、とのご指摘です。この問題、以前から関心を持っているのですが、ウェーバーの説が誤解に基づくもの、という認識は、私の知る限りでは、レオ・シュトラウスに続いて、太田さんが二人めです。私の浅学のせいゆえかもしれません、他にもウェーバーの批判者はいるのかも知れません。
 それは別にして、もしよろしかったら、ウエーバーの説についての太田さんの説をお聞かせいただけるでしょうか。

<再回答>
レオ・シュトラウスのヴェーバー批判なるものを、まず、お聞かせ願えませんか。

<再々質問>
 一読者です。

 失礼しまた。
 レオ・シュトラウスの見解ですね。
 ドイツ生まれのユダヤ人で、ナチスを嫌い、アメリカに移った人です。1953年にシカゴ大学で『自然法と歴史』という題で連続講演を行い、その中でウェーバーの社会学の思想がいかにしてドイツの思想的背景から登場してきたかを分析しています。
 彼によると、ピューリタンが「富の蓄積は神の信仰の証明」と見なす考えを形成する以前に、ヨーロッパでは思想の転換が起こり、ピューリタンはその転換後の思想を担った人たちだった、と述べています。
 それで、シュトラウスは、思想の転換をした人物の名前としてマキャベリを挙げているのですが、それ以上のことは、講演の中で触れていません。

 ウェーバー自身への批判としては、ウェーバーはカルヴィンの亜流たちの考えを取り上げたのであって、カルヴィン自身の思想を検討したわけではなかった、と言います。もしカルヴィン自身を検討すれば、ピューリタンの倫理と資本主義を結びつけるようなことはなかっただろう、と指摘しています。

 ウェーバー自身の著書の中からでは、私は、ピューリタンたちの富への考えは、デカルトの哲学を世俗的に解釈したものである、という指摘が気になっています。

 とりあえず、今、私にすぐにここに書けるのは、以上です。

<再々回答>
レオ・シュトラウスのヴェーバー批判について教えていただき、ありがとうございました。

 今、時間が余り割けないのと、手元に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」等の本がないので、雑ぱくな回答で失礼させていただきます。
 まず、第一に、私は欧州大陸の論者の書くものは、基本的に信用していません。ドイツ観念論からマルクス主義哲学に至るドイツ思潮の流れがその典型ですが、彼らの書くものは、要するに対英後進国のコンプレックスに哲学的衣装を着せただけだ、というのが私の見解です。
 その後のドイツ思想界に登場した巨人がマックス・ヴェーバーですが、彼もまた、このコンプレックスに突き動かされていたように私には思えてなりません。彼が、西側社会がなにゆえ世界最初に「近代化」を達成できたかの解明、を生涯のテーマにしたところにそれが現れています。そもそも、西欧とイギリス(ないし米国)を一括りにした近代化論など描きうるはずがないからです。西欧もまた日本と同様、(歴史始まって以来、「近代」社会であった)イギリスに驚嘆の念を持ち、模倣によってイギリスに少しでも近づこうとしたにすぎない、という事実からヴェーバーもまた、意識的ないし無意識的に目をそらしているのです。
 第二に、プロテスタンティズムが資本主義を産み出したはずはありません。そもそも、アングロサクソン・ウェイ・オブ・ライフ=個人主義(財産処分の自由)=資本主義、であって、イギリスは最初から資本主義社会(と言って悪ければ、資本主義的社会)だったからですし、プロテスタンティズム(より端的にはカルヴィニズム)は、なるほどイギリスの清教徒革命の際に一定の役割を果たしますが、この17世紀の一時期を除いて、イギリス社会の中に殆ど痕跡をとどめていないからです。宗教改革(=カトリック教会の否定=ローマ文明との決別)の口火が切られたのは、ルターやカルヴィンが現れるずっと以前のイギリスにおいてであったことも忘れてはならないでしょう。